震災後も、コーディネーターがいれば地域での生活継続が可能

 震災後の厳しい状況の中でも、コーディネーターがいれば地域での生活継続が可能となることをあらためて実感している。


 外来棟半壊に伴い、当院で提供していた通所リハビリテーション通所介護継続が不可能となった。毎日50名以上の利用者がいたため、利用停止に伴い、生活機能低下が危惧された。地域を見回しても、3月中はガソリンがなく、どこの事業所もサービスを停止していた。未だに、福祉避難所化した特養などは通所サービスを再開できないでいる。その中で、4月以降、ケアマネージャーが中心となり、代替通所事業所をあっという間に探し出し、ケアプランを作ってきた。
 仙台市は通所サービスの激戦区である。狭い地域に事業所がひしめいている。その中で、リハビリテーションを売り物として当院で通所事業を行ってきた。生活機能を維持するためのリハビリテーション専門職が対応する個別リハビリテーションだけでなく、1日のスケジュールの中で身体を動かすようなプログラムを作っていた。地域の中でも高く評価され、入浴サービスがないにも関わらず、なかなか空きがない事業所として知られていた。利用者も、レクリエーション中心で座りきりになっている通所など利用したくないと思っている。しかし、ケアマネージャーから依頼を受けて診療情報提供所を書いた事業所をみると、しっかりと生活機能維持のためのサービスを提供しているところばかりである。
 現在の状況について、当院のケアマネージャーの話を聞いてみると、通所、訪問は既に問題ないということだった。ただし、短期入所が回らなくなっているということだった。ケアマネージャーが構築している情報網の精密さに驚かされている。


 在宅で独居生活をしていた頚髄損傷患者が、震災後、一時当院に入院していた。津波が押し寄せたため、甥子さんが救出に向かい、間一髪で近くの病院に運んだ。しかし、その病院自身がライフラインが途絶したため、当院に転送されてきた。幸いにも自宅は津波の被害にあわなかった。本人が携帯電話を使って、今まで利用してきた介護サービス利用が可能となったことを、自立支援事業のコーディネートをしている事業所に確認をした。電気・水道が復旧したこともあり、転院後約2週間で自宅退院となった。当院で提供したのは、ベッドと暖かい食事と二次的合併症予防のためのリハビリテーションだけである。重度頚髄損傷患者でも、利用できるサービスが調整されれば、十分自宅生活が可能であることを勉強させてもらった。


 地震で自宅が損傷された神経筋疾患患者もいた。地震前から入院していたが退院先はない。どうしたら良いものかと悩んでいたら、自治体職員からまずは避難所に退院させて欲しいと言われた。よく聞いてみると、避難所にいた方が片づけ部隊を派遣しやすいからだと言われた。確かに既に歩行は自立している。介護サービスもすぐに準備できるとのことだった。退院時にいささかゴタゴタがあったが、いったん避難所退院となり、自宅生活に戻った。同じような状況の在宅酸素療法患者もいた。現在、仮設住宅建設待ちとなっている。


 ケアマネージャーであれ、自立支援事業のコーディネーターであれ、自治体職員であれ、地域の介護サービスの状況を熟知し、目標を明確にし、必要なサービスを調整できる者がいれば、安全かつ安定した生活は可能である。このことを、震災後の緊急事態での対応を目の当たりにして実感した。
 震災後に歪みを生じたところは数々ある。しかし、地域ネットワークが構築できているところでは、残存機能を上手に使い、介護サービスを調整できている。当院は、介護保険施行前より地域ケア連絡会の幹事施設として、ネットワーク構築に関わってきた。この非常時にあたって、意識が高い地域の介護事業者のネットワークが機能していることを確認できた。自らの果たしてきた役割の大事さを実感している。
 震災後、交通網やライフラインの復旧、物流の回復など、地味だが自らの役割の重要性を認識し、地道な活動を続けた者が多数いた。そのことが都市機能回復につながっている。医療や介護も全く同様である。
 一方、沿岸部は、過疎化・高齢化が進み、共同体機能の低下が危惧されていた。医療崩壊、介護基盤未成熟が問題となっているところに、今回の震災が起こった。基盤が不十分なところで起こった災害であり、自力では対応が難しい。どのような援助が可能か、思い悩むこの頃である。