塔のある風景 エルフの三つの塔

「西境の先の塔山には、遠い遠い大昔のエルフの塔が三つ、今なお立っているのが望めた。それらははるけく月明に輝いた。
一番高い塔が一番遠くにあり、緑の小山の上にぽつんと一つ立っていた。西四が一の庄のホビットたちによれば、その塔の頂きに立つと海が見えるそうだった。しかしいまだかつてその塔に登ったホビットのあることは知られていない。」

これら三つのエルフの塔はホビット庄からはどんなふうに見えたのだろう。アルゴナスやオルサンクなどのヌメノール風巨大建築物件もかなりインパクトがあるけれど、それらは遠い山並みのはるか向こう側に存在し、ほとんど神話的領域に属しているが、このエルフの塔はホビット庄の生活空間に近いところに立っていて、西境のほうへ遠出をしたときには、丘陵地のてっぺんににょっきりと聳える姿が見えたはずだ。昔千住の辺にあったという「おばけ煙突」ではないけれど、丘の上に立つ三つの塔が夕日を背に長い影を落としていたり、月の光を浴びて浮かび上がっていたりするさまは幻想的かつシュールな光景であったに違いない。

昔の団地に付き物であった給水塔であるとか、高圧電線の鉄塔(q.v.「ジュンと秘密のともだち」)であるとか、塔状の物件というのは独特の存在感で風景にアクセントを加えるものだが、ホビット庄の田園風景と隣接しているこのエルフの塔のイメージが初読以来、頭の片隅に棲みついてしまっている。
(最近は地方へ出かけたおりなど、遠くの山の上に白亜の塔のような面妖な建物が建っているのが見えておやっと思いますが、たいていはどこかの宗教団体の建物だったりしますね)

「不意にかれは、自分がひらけた野原にいることを知りました。木が一本もありません。暗いヒースの野にいたのです。空気は嗅ぎ慣れない潮の匂いがしました。目を上に移したかれは、自分の前に高い白い塔が立っているのを見ました。
それは聳え立った山の背にぽつんと一つ立っていました。かれはその塔に上って海を見たいという強い望みに不意に襲われました。
かれは塔に向かって、山の背を登り始めました。しかしその時突然空を閃光が照らし、雷の音が聞こえました。」

フロドは堀窪の家でこの塔の夢を見る前に西境にあるエルフの塔を遠目からでも眺めたことがあったのだろうか。
HoMEの Making of LotR によれば、フロドの前身であるビンゴは一度だけエルフの塔を見たことがあると証言しているが、この設定がフロドにも当てはまるかどうかははっきりしない。
フロドの夢に出てくる塔は西境のエルフの塔の噂から自分でイメージした夢想の塔であったのかもしれないが、同時にまた一種の予知夢のような、神秘なビジョンが介入しているような雰囲気もある。

シルマリルの物語」によると、この三つのエルフの塔はギル=ガラドが盟友エレンディルのために建造したものだという。エレンディルは北方王国にあった三つのパランティアのうちの一つを三つの塔の中でいちばん高く海寄りに立つエロスティリオンという名の塔に置き、この石は他のパランティアのように石同士の伝達のためには使えず、ただエレスセアを望見するために用いられた。エレンディルは故国喪失者であることに倦んだとき、この塔に上り、はるか西にあるエルフの島を石の中に覗き見て慰めを得たという。(この西方を見る石の力を "Straight Road"ならぬ "straight sight" と言ってるところが面白い。)

ところでこの石は指輪所持者たちが西方へ渡っていくとき、キアダンがエルロンドに渡して西方へ戻されたという。
石の所有権はアラゴルンにあるはずだのに、どうしてエルロンドが持っていくんだろうと不思議に思ったのだが、エルフの時代の終焉とともに、中つ国に残された西方との最後のパイプラインでもあるパランティアもまた取り除かれねばならないという、上からのそんな指令があったのかもしれない。

なだらかな丘陵地帯の西方に立っている三つの塔。そのいちばん高い塔に登ると海が見える。自分も海の見えない内陸に育ったせいもあるのか、内陸性の物語であるLotRの中でたまにその存在を垣間見させる海の描写には妙に心騒がすものがある。

塔 (河出文庫)

塔 (河出文庫)

塔 (1976年)

塔 (1976年)

空間の詩学 (ちくま学芸文庫)

空間の詩学 (ちくま学芸文庫)

「山へ行く」

萩尾望都はほとんど読んだことないのだが、「山へ行く」という題名に惹かれて読んだ。

この作品で「山」が象徴しているものはなんだろう。
いや別に何かの象徴とかではなく、せわしない日常から脱して自然と一体になれる場所ってことでいいのかもしれないが、その「山」が何か自分にとって非常に本質的な、魂の故郷のようなところ、ある種の聖域として希求し目指しながらも、日々の「生活」に紛れてしまって、そこに辿り着くことがなかなか難しいという構図が、何か普遍的な問題意識のようなものとして胸に迫ってくる。

ゴドー待ちという言葉があり、ゴドーとは神だという説に従えば、ここでの話はゴドーに会いに行くつもりなのにせわしない生活に追われているうちに遂に死ぬまで行けなかった、ということになるだろうか。

しかし日常がどんなに忙しくて喧騒に紛れていても、微かな通奏低音のように消えることなく流れ続けている音楽のような、魂の故郷への指標としての「山」というヴィジョンがとても魅力的に感じた。
(もしこれが「山」ではなく「海へ行く」だったらかなりトールキン的だった)

山へ行く (flowers comicsシリーズここではない・どこか 1)

山へ行く (flowers comicsシリーズここではない・どこか 1)

「四つの愛」は新訳が出ていた

「四つの愛」(蛭沼寿雄訳)を再読していたら、随所で理解困難な箇所があった。初読のさいはルイスの思想が難解、もしくはルイス自身の表現がうまくなくて言いたいことが伝わってこないのか、あるいは単に翻訳の問題なのか深く考えずに読み飛ばしていたが、今回は意味がわからない箇所を原書と照らし合わせながら読んでみて、本書の分かりにくさの多くが翻訳の問題だったことがはっきりした。これはさらなる改訳の必要があるのではないか?と思ったところ、2011年に新訳(佐柳文男訳)が出ていたのを発見。新訳の方を調べていないので確かなことは言えないが、きっと旧訳に満足していなかった版元や訳者の方が新訳を出したはずなので、これから本書を読まれる方は値段は張るが新訳を手に取られるほうがいいと思う。
(翻訳の問題はさておき、旧版の解説で蛭沼氏がオックスフォードでルイス本人に会ったさいの想い出を綴っているのが貴重。日本人でルイスに会ったことのある人って他にいただろうか?)

四つの愛[新訳] (C.S.ルイス宗教著作集)

四つの愛[新訳] (C.S.ルイス宗教著作集)

ホビット映画続編の感想

海外で公開されてからこの数ヶ月、トールキンファン界隈での評価を読みたい気持ちをぐっと押さえ、できるだけ前知識は入れずに観てきた。前作と同じく、IMAX、HFR3Dで鑑賞。

うーーーーーーーーん。原作と映画の違いとか、細かいこという以前に、何か感情移入するきっかけが持てないまま、矢継ぎ早に繰り出されてくるアクションに息次ぐ暇もなく、感情が置いてきぼりになった状態のままあれよあれよと最後までいってしまい、なんというかちょっと呆然としてしまった。What have they done!

帰宅してネットで感想を漁っていると、大枠のプロット、主要登場人物は原作とおりでも、内実はトールキンとはあまり関係のないアクションムービーだというような感想をいくつか見かけた。こういう感想を抱いている人が前作をどう評価してるのかわからないが、前作にはあったトールキン濃度が今作で薄まった感じは確かにあり、それは映画オリジナルのシーンが増えたという理由だけでもないように思う。

自分の場合、観ていて歯がゆく感じたのは、タウリエルとキーリのロマンスとか映画の創作部分よりも、原作通りのイヴェントがそれぞれ中途半端な描かれ方だったこと。ビヨルン、闇の森、エルフ王の館と、イヴェントを消化しつつも、なにかしら情感不在のまま先に行ってしまう感じ。ビルボ視点が少なかったせいだろうか。そう言えば前作に比べ、ビルボが大人しかった気がする。弱音を吐いたり文句を言ったり、ドワーフ達と旅の苦楽を共にしながらの感情的な交流をもっと観たかった。(魔の川とボンブールの件がカットされたのも痛い。)

ビヨルンや森のエルフはLotRにはない妖精物語的、童話的要素が原作の魅力の一つだが、エクステンディッド•エディションで何か追加がないか期待したい。(それにしても前作のEEはドワーフ達の悪ノリが観てて辛かった。ノーモア、バッドテイスト!)

たとえばビルボがつらぬき丸と命名するところやスマウグとの会話辺り、原作ではビルボが一種の神話的英雄として立ち現れる特別な瞬間だと思うけど、映画ではその辺あまり拘らずアッサリ描かれており、スティング命名ではビルボが見得を切ってくれるかと期待したが肩すかしだった。一作目ではビルボの意識の変化(もしくは成長)がテーマの一つだったと思うが、今回はそういう視点もなかったように思う。

とはいえ見る前からこういうシーンが観たいとあらかじめ期待していたわけでもなく、PJの想像力に身を任せるつもりで臨んだのだが、PJらしさを発揮してる部分では、総じてそのやり過ぎ感にもう笑うしかないわになってしまった。(前作でもそれはあったけども。)クライマックスのスマウグとの大立ち回りは、ドワーフと竜の直接対決がないことに原作読んださい物足りなく感じた記憶があるので、ここは映画的見せ物として何か脚色があってもいいとは思うが、最凶のドラゴン相手にドワーフ達が無傷で戦えていることで、結果、不死身のマンガヒーローと怪獣の戦いのような感じになってきたのはいかんともし難かった。

“many a year” vs. “many years”

エルロンドの会議の中のガンダルフの台詞。

It was Radagast the Brown, who at one time dwelt at Rhosgobel, near the borders of Mirkwood.
He is one of my order, but I had not seen him for many a year.

この for many a year に引っかかった。なぜ、many years でなく many a year ?

辞書で引いてもわからないので、ググってみたところヒットしたのがコレ↓
http://ell.stackexchange.com/questions/4904/many-a-year-vs-many-years

誰かが同じ質問してるんですが、この人の引用元はホビットの冒険だった。どうやらトールキンの好きな言い回しのようで。

•••文法的に間違いではなく、詩的、文学的効果のために使われることもあるが、会話や普通の散文では使われない云々。なるほど。

フロドはケツアゴだった!?

ガンダルフがバタバーに説明したフロドの人相なんですが。

「だがこの者は一部のホビットたちよりは背が高く、大部分のホビットたちより色が白い。また口と顎の間にくぼみがある。…」(文庫2 p147)

この「口と顎の間のくぼみ」は原文では he has a cleft in his chin. なんですが、これってアゴに切れ込みがある、すなわちケツアゴってことなんじゃあ!?

いやフロドのアゴが割れてても全然いいんですが、なんか意外だったもので。。

永遠の絶望の滝

You Are Here: Personal Geographies and Other Maps of the Imagination

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Personal Geographies という副題に惹かれて購入。
ペラペラめくっていて、俄然、注目した絵があった。
絵の題名は Falls of Eternal Despair。ネット上にあるかと検索したらこちらにありました。

なんかモロ、ルイスのファンタジー世界だな、と。ナルニア、天国と地獄の離婚、天路逆行、どの作品にも冒険と巡礼の最終地点に輝かしい山脈が聳えています。

こういう天国と地獄スゴロクみたいな世界観はキリスト教圏には昔からありそうですが、直接的な元祖はバニヤン天路歴程になるのかな。