医療システム教授は精神論がお好き

今年最後のエントリーに日本医療政策機構の医療政策 新政権への緊急提言第8回「医師は被害者意識を捨てよ」 を取り上げて見ます。年末最後のネタとしては誠に遺憾なんですが、そういう年であったという事でお目こぼしください。それと原文もソコソコ長いのですが、内容が話題豊富と言うか、一面ブービートラップの巣と言うか、吉本新喜劇のギャグ満載と言うものですので、パーツで見る各論編と全体を見直した総論編に分けて解説します。私の記憶している限り2007.11.28付産経新聞社説に匹敵するぐらいの物凄さだからです。


■各論編

提言は質問は対する答え方式で、質問内容は、

  1. 医療政策における重要課題、そして課題解決の方法などについてお聞かせください。
  2. 医療政策課題にまつわる5つのキーワードを教えてください。
  3. 課題解決を実現するための財源確保の方法は?
  4. 課題解決のためにご自身が行っている、あるいは行おうとしていることをお聞かせください。
  5. 我が国の医療政策に必要な、もっとも重要なキーワードなどを「ひとこと」で示してください。
こうなっていますから、これにそっていきたいと思います。

1.医療政策における重要課題、そして課題解決の方法などについてお聞かせください。

議論の大きな枠組みを考えよ

 政策を論議するときに、前提、あるいは議論の枠組みがないので、さまざまな関係者が、みな自分にとって都合のいい話ばかりをしているような印象がある。たとえば、医療崩壊は医師が足りないから、つまり量の問題だと言う。そういう発想自体が、「私は、今のままでいい」ということにつながりかねず、思考停止を招くのではないか。量が増えたとしてもシステムを変えなければ、単に医学部の教授が喜ぶだけ。将棋の駒が増えるだけで、結局、何も変わらない。

国と地方の役割分担
 
 医療という生活にきわめて密着した公共サービスの枠組みには、国が担う部分と地方・現場が担う部分との2つがある。医療は、医師がいなければ成立しない。したがって、医療に関して国が担う部分は、医師の質を保障するための医学部教育と国家試験。そして、量のコントロール。これらは、本来的に国が担うことだ。

 地方・現場が担うことは、住民にとって納得のいく医療提供を受けられるよう、政策を総合的に調整することだろう。

ジャブから始めましょうか、

医療崩壊は医師が足りないから、つまり量の問題だと言う。そういう発想自体が、「私は、今のままでいい」ということにつながりかねず、思考停止を招くのではないか。

正直なところ何を言っているのかよくわかりません。この辺は人によるのでしょうが、現在のネット医師では「量が足りないから増やせば解決する」レベルの議論はかなり前に終わっていたかと思います。理由は極めて単純で急には増えない事がまず第一で、増やしても医療費が増えなければ医療レベルが確実に低下するからです。この前提の上で「私は、今のままでいい」という意見は増えていますが、「今のままでいい」のは数の話で、今の数で医療を成立させる議論に移行しています。

量が増えたとしてもシステムを変えなければ、単に医学部の教授が喜ぶだけ。将棋の駒が増えるだけで、結局、何も変わらない。

これもまたカビの生えたような論法ですが、医師が増えて将棋の駒が増えても旧来の医局人事は復活しません。もちろん将棋の駒が増えれば当直まで駆り出されている教授は喜ぶでしょうが、それだけしか見えていないとはおもしろい見解です。それと「何も変わらない」と気取って仰られてますが、問題の本質は「どんどん変わっていく」この現状にどういう処方箋が的確かを摸索している段階であり、旧来の医局人事しか念頭に無い発言は楽しめるかと存じます。

医療に関して国が担う部分は、医師の質を保障するための医学部教育と国家試験。そして、量のコントロール。これらは、本来的に国が担うことだ。

意見としてはごもっともですが、コントロールした結果についての御意見がありません。まあそれは良いとして、

地方・現場が担うことは、住民にとって納得のいく医療提供を受けられるよう、政策を総合的に調整することだろう。

地方・現場が納得のいく医療提供を行なうための医療費を、国が大号令の下、取ってひたすら削っている事については如何でしょうか。それも「地方・現場」が何とかする問題と言うことでしょうか。後段に注目してみましょう。

2.医療政策課題にまつわる5つのキーワードを教えてください。

ここが無茶苦茶長いので5つのキーワードを順に読んでいきます。

1)医師は応召義務を果たしていない

 医療問題にまつわるひとつ目のキーワードは、医師の応召義務。医師は、医療業務を独占している。独占しているのだから、必ず義務も出てくる。それが、応召義務。たとえば電力会社は、すべての国民に電力を供給しなければならない。その代わりに、地域の電力供給を独占できる権限が付与されている。つまり権利と義務を、同時に持っているのだ。へき地だから電気を供給しない、儲からないから送らないというとはできないのである。医師は、医療業務を独占していながら、応召義務を果たしていない。これが医療のもっとも本質的な問題だ。

 東京や奈良のたらい回し事件もそう。自分の施設が満床だったら断るということが、習慣化されてしまっているから起きる。「施設完結型医療」を前提にしているなら、応召義務も果たしてもらわなければ理にかなわない。

 「いまあるもの」で何とかするのが医療だ

 求められているのは「地域完結型」の医療。自分の病院で対応できなければ、ほかの病院が対応できないか探してみるべきだろう。医師が不足していようが多かろうが、今いる人員でどうにかする。それが医療の大原則である。

 我々はエコーの検査、超音波による検査機器がないからといって、診断をさぼったりはしない。あるいは、血圧計がなく、血圧が測れないからといって何も手当しないなどということもない。そもそも医療は、今あるものでどうにかするものだ。「CTがないからできない」──ありえない。「満床だから」──そんな理由でなぜ診療を断っていい、なぜ、許されるのか。そんな習慣をつけたのは誰か。医師たる者が、業務を独占しながら、応召義務を果たさない。いつ、医師の神経は麻痺したのだろうか。

 少なくても、私たちの世代、団塊の世代までは、そんなことはなかったと記憶ししている。何々がないからできませんなどと言ったら、上司からこっぴどく怒られた。「患者を見殺しにするのか!」と。そう叱咤する指導者もいなくなったのだろう。たぶん我々の10歳年下からの世代から、そういう習慣ができ上がっていった。そんな気がしている。

電力会社と医療を比喩として同列に並べています。電力会社が儲からないところにも電力を送るのだから、医師も応召義務を果たせという御趣旨が展開されています。またえらいものに喩えてくれたものですが、とりあえず電力会社は営利企業であり、医師は個人です。電力会社は儲からないところに電力を供給していますが、電力会社社員がそのために36時間連続勤務を行なうとか、夜勤という名の違法労働を月に100時間以上も行なうのが当然とされているわけではありません。

医師は人間であり、必要な休憩を取らないと働き続けられません。応召義務を果たすためには応召義務を果たせる勤務環境の整備が当たり前すぎますがまず必要です。どう考えても電力会社と言う法人と医師個人を同列において論評するのは無理があります。医師であっても応召義務に応えられる労働環境があれば当然応えるでしょうが、現在の問題は応召義務の言葉に寄りかかられて無限の労働を要求されている事に全く気づかれていないかと思います。

それとこの教授は「満床」の意味を医師でありながら、無知なのか故意なのか判別不能ですが、取り違えられています。

「いまあるもの」で何とかするのが医療だ

満床とは医療者用語で「何もない」です。「今ある」も何も「何もない」という意味です。この教授が臨床をされているかどうかは存じませんが、1人当直のところに秋葉原の負傷者が無秩序に運び込まれたら「何とかする」と言うのでしょうか。一人治療に当たれば二本の手は塞がり後は何も出来ません。

医師が不足していようが多かろうが、今いる人員でどうにかする。それが医療の大原則である。

これもよく分からないミスリードを行なっているかと思われます。「不足している」と「いない」では根本的に意味が違います。不足であれば頑張る余地はまだあるかもしれませんが、「いない」となれば「無」ですからそこから何も生まれてきません。この教授は余ほど医師が余っているところを巡り歩かれたようで、「いない」という医療現場を見た事がないようです。幸せな医師人生かと思います。

少なくても、私たちの世代、団塊の世代までは、そんなことはなかったと記憶ししている。何々がないからできませんなどと言ったら、上司からこっぴどく怒られた。「患者を見殺しにするのか!」と

老人が「昔は良かった」と懐古するのは勝手ですが、「今どきの若い者は」は遥か古代エジプトから使われていたフレーズである事ぐらい教養として知って欲しいところです。教授の時代と現在では医療の質が異なっています。この教授の時代では

我々はエコーの検査、超音波による検査機器がないからといって、診断をさぼったりはしない。あるいは、血圧計がなく、血圧が測れないからといって何も手当しないなどということもない。

こういう医療でも医療者は許し、患者も許していた時代だったでしょうが、現在の医療でこんな事をやらかし、結果不良であればマスコミから嵐のような社会的制裁が情け容赦なく降り注ぎ、患者及び遺族から莫大な損害賠償つきの民事訴訟と、下手すると検察からの刑事訴訟までついて来ます。医療を取り巻く環境が劇変している事を医療システム学ではまったく顧慮しないのでしょうか。凄く陳腐な学問に思えてきます。

2)医師は被害者意識を捨てよ

 2つ目のキーワードは、被害者意識。こんなものがあったら絶対新しいものは生まれないし、元気になれない。阪神大震災があったときに、東部地区の灘や西灘ではすぐに自警団を組んで、ゴミを勝手に捨てるな、変なやつが来たら追い出せ――そんな自発的なコントロールがすぐにできたという。おそらく彼らに、被害者だとの意識がなかったからだ。たとえ、被災者ではあったとしても。

 ところが、被害者意識を持っていた地域では、「いつゴミを取りに来るんだ」、「俺たちは被害者だ」――と訴えるばかりで、何も進まなかった。被災者ではなく、被害者だと言う。行政は何もしてくれないと言い、いまだもって自立できていない。被害者意識だけしかないから立ち直れないのだ。
医師も同じ。「私は悪くない。制度が悪い。被害者だ」――だからうまくいかない。「私たちは自らこれを変える。だから行政はこうしてくれ」というのが、本来のプロ集団でありネットワークであろう。

 昨日、経営がうまくいっていない病院で、勤務医との間に次のようなやり取りがあった。「なぜ、君らの病院はうまくいかないんだ。時代にも適応していないし、必要な診療科のスクラップ・アンド・ビルドもできていないのは、なぜか?」、「院長が悪い」、「わかった。お前たちは悪くないというんだな。じゃあ院長をいかに辞めさせたらいいか、クーデターの起こし方を私が教えてやろう」、「結構ですよ」。これが典型的な例だろう。自分たちに当事者意識がまったくない。

 発想を変えれば良い。誰が悪いかという犯人探しをしても意味はないのだ。発想を変えられないのに、発想を変えられる人の邪魔をするなと言いたい。発想を変えれば、世の中も変わる。

 ヒエラルキーの中で育った医師は、二言目には「教授が」、「院長が」と言う。自分で考える癖をつけてこなかったせいだろう。

 先ほども触れたが、当事者意識がないのは、医師だけではない。東京大学医療政策人材養成講座のグループが47都道府県知事に「救急医療体制はあなたの問題だと思いますか」というアンケートをしたら、「YES」回答をしたのは、たった2人の知事だけ。ほとんどの知事が、それは国の問題・担当部局だと答えたそうだ。
まず、知事に当事者意識がないことが、地域での最大の問題。私がお手伝いをしている地域の方々は、どなたも当事者意識を持っている。三重県のある院長は、市長や医師会長といっしょになって自ら100ヵ所くらいでタウンミーティングを行っていると聞く。要は、地域の問題についは、知事や市長などトップ自らが当事者意識を持って解決しようとしなければ何も始まらないのだ。

とりあえずですが、

阪神大震災があったときに、東部地区の灘や西灘ではすぐに自警団を組んで、ゴミを勝手に捨てるな、変なやつが来たら追い出せ――そんな自発的なコントロールがすぐにできたという。おそらく彼らに、被害者だとの意識がなかったからだ。たとえ、被災者ではあったとしても。

私も被災者の端くれなので言わせてもらいますが、あの震災の被災者を「被害者だとの意識がなかったからだ」みたいな安易な喩えに使ってもらうのを止めて頂きたい。そんな単純に被災者意識と被害者意識を区別する喩えに用いるには、受けた衝撃の大きさの桁と質が違います。

まあ被災者としての意見はこれほどにしておいて、この教授の被害者意識と当事者意識の喩えがあります。

昨日、経営がうまくいっていない病院で、勤務医との間に次のようなやり取りがあった。「なぜ、君らの病院はうまくいかないんだ。時代にも適応していないし、必要な診療科のスクラップ・アンド・ビルドもできていないのは、なぜか?」、「院長が悪い」、「わかった。お前たちは悪くないというんだな。じゃあ院長をいかに辞めさせたらいいか、クーデターの起こし方を私が教えてやろう」、「結構ですよ」。これが典型的な例だろう。自分たちに当事者意識がまったくない。

私が解釈する限り、この教授の被害者意識とは現在の環境の不満を「院長が悪い」の悪口だけで終わり、

「わかった。お前たちは悪くないというんだな。じゃあ院長をいかに辞めさせたらいいか、クーデターの起こし方を私が教えてやろう」

この言葉に反応しないから当事者意識がないとしているようです。これを読むとこの教授に医療崩壊を語らせる資格が無い事がアリアリとわかります。現在の医療崩壊の象徴的な現象である「立ち去り型サポタージュ」「逃散」を御存知無いようです。十分な当事者意識の下、待遇が余りに悪い病院から医師が消え去っています。別にクーデターみたいな騒ぎを起すのだけが当事者意識ではありません。この教授の世代のようにゲバ棒を振るうのが当事者意識と思われるのは迷惑な話です。

3)数値と事実で議論を

 3つ目は、フィギュア・アンド・ファクト、つまり数値と事実。何をどうしたらいいかを、データと事実のみで議論する。覚えやすいようにFFとでも呼ぶといいかもしれない。「足りない」などの感覚値ではなくて、そこにある医療資源をどのようにシステム化したらいいか、ネットワーク化したらいいかを、数値にもとづいて考えるべきだ。

 三重県に例をとれば、ある県立病院の院長さんは、大学から脳神経外科医が引き揚げられたので、お隣りの伊勢市の病院の脳神経外科に患者を送っている。産婦人科も引き揚げられると、今度は同院の先生に来てもらった。つまり、その病院にとっての脳外科や産婦人科の医療は、伊勢まで含めた地域完結型医療となったのである。さらに、去年の夏には、中学生と高校生で医学部・歯学部・薬学部・看護学部等に行きたい者・行って入る者140名を集めて「サマー・メディカルスクール」という取り組みをし、そこで院長さんは、故郷で役に立ちたいという若者がまだまだいることを実感したと話していた。

 重要なのは、地域の人による地域振興の気持ち。地域振興は地域の者が考えて、支えるしかないし、支えるべき。人間もいるし、情報交換もできる。そういう動きをつくるために首長には、話し合いの場、交わる場を設けていただきたい。

 ある市長からも医師不足で困っていると相談を受け、対策に乗り出した。その市の場合は、まず、責任診療地区を設けた。マーケット調査をし、互いの病院が不足している診療科を補完し合うようにしたのだ。また、基幹病院である5つの病院国立、済生会、市立、社会保険病院と市民病院の院長に集まってもらい、診療科の再編成を行った。各病院には非常勤の雇用をやめ、常勤医で担える科のみを存続させ、存続できない科は、他の基幹病院にまわすことにしていただいた。

 また、院長が派遣元の大学と交渉し、4人か5人はその大学の派遣でない医師を受け入れられる枠づくりをした。

 数値と事実をもとに、適切なネットワークをつくれば、医師不足の問題もなんとかなるものだ。

教授ってラクな商売ですね。一例報告の成功例、それも自分が成功と勝手に思っている例を「数値と事実」で一般化できるとはうらやましい限りです。一例報告といえば異論は出るかも知れませんので、この教授が手がけられ自賛しておられると聞く、千葉の地域医療計画、出水総合医療センター、高知医療センター中津市民病院がどうなっているかを考えればワクワクするような一般化かと存じます。

数値と事実については当ブログでも数多く算数していますが、

数値と事実をもとに、適切なネットワークをつくれば、医師不足の問題もなんとかなるものだ。

これは断言します。どう計算しても不可能である事は「数値と事実」で既に証明されています。ある特定地域に十分な医師をかき集めたら必ずどこかに穴が空くのが厳然たる「数値と事実」です。分かりやすいところで言えば、東京都が本気で十分な医療を都民に提供したら、東日本の医療は壊滅します。

4)医師も弁護士型の専門家集団にすべき

 そして4つ目は、臨床医のコントロール。今、医師は、その身分を生涯にわたって保証されている。一方で、目の前の患者及びコミュニティに対して適切に医療を行える感性や経験、そしてモラルがあるかなどは問われてはいない。

 よく比較されるが、弁護士は司法試験という国家試験を通ったあと、自由にどこででも弁護士業務ができるかと言えば、できない。司法試験に合格したら司法研修所で共通の研修プログラムを受け、修了して、さらに47都道府県の弁護士会という業務統制型の専門職集団に所属することで、初めて弁護士実務ができる。

 医師は、医師国家試験を通ったあと、共通の研修プログラムもなければ、どこかに所属しないと実務ができないという専門職集団に属す必要もなく、いわば野放図。この状況は、いかがなものだろうか。医師法を改正して、弁護士会と同じように業務統制型の専門職集団に属すよう義務づければ、医師のクオリティコントロールも、配分コントロールもできるようになるのではないだろうか。

ワロタ・・・・

弁護士会と同じように業務統制型の専門職集団に属すよう義務づければ、医師のクオリティコントロールも、配分コントロールもできるようになるのではないだろうか。

この教授は正気でこんな事を考えているのでしょうか。建前上の小さな話はさておき、どこででも自由にできず地域に強制配置されるのであれば、何故に弁護士に医師を遥かに上回る偏在があるのでしょうか。論理的で誰でもすぐに理解できる説明が欲しいところです。それとも弁護士は偏在などしていないの主張を論理だててして頂けるのでしょうか。変わったお方だと思います。

5)「医療理念法」を

 5つ目は、医療理念法。そもそも医療とは何かという医療の理念法が、我が国にはない。「ああ、がんが話題になったからがん対策基本法をつくろう」、「自殺が多い?取り組みましょう」、「予防接種、ああ、そうしましょう」。私は、医療はなんぞやとの理念を明確にしなければならないと思う。そのうえで、医療提供のためのコストとリスクとベネフィット──コストは医療提供側、プロバイダーが負わないといけないリスクもある。同時に、患者さんが負わないといけないリスクもある。ベネフィットも、個人的なベネフィットと社会的なベネフィットがある――の配分をどうするかを決めるべきだ。

 国がやるべきことは、医療理念法をつくることだろう。隣の韓国や台湾では口腔ケアの理念法ができたらしい。日本は近隣のアジア諸国よりも取り組みが遅れている。

 国会や政党の法制審議能力を増強せよ

 国会で法制審議にあたるスタッフが、きわめて少ない。政党も同様。だから議員立法をつくる力が弱いし、政府が出してきた政策の検証をする力もほぼない。

 まずは、国会で法制審査をする人間を少なくとも今の10倍に増やすことが必要だと考える。政策を検証する内閣法制局に相当するような新たな組織を構築するのだ。そうすれば、その人間は議員の要請に応じて、国会、あるいは行政から出てきた基本データを検証し、政策の検証能力を高められるだろう。初めて政府には確かな政策の起案権が与えられ、国会に同意権を認められる。政策立案、政策評価ともに質が上がり、国が健全になっていくと思う。

医師法や医療法の取り決めではこの教授はまだ不足と考えられているようです。まあそれは『個人』の信念ですから主張するのは自由ですが、

国会で法制審議にあたるスタッフが、きわめて少ない。政党も同様。だから議員立法をつくる力が弱いし、政府が出してきた政策の検証をする力もほぼない。

「ふ〜ん」てなところですが、どうにも今でもゴマンとある御用会議を増やせの主張の様に思われます。その証拠に、

国会で法制審査をする人間を少なくとも今の10倍に増やすことが必要だと考える。政策を検証する内閣法制局に相当するような新たな組織を構築するのだ。そうすれば、その人間は議員の要請に応じて、国会、あるいは行政から出てきた基本データを検証し、政策の検証能力を高められるだろう。

どう考えても御用会議を10倍に増やせの主張かと思われます。どうもこの教授はあぶれているみたいですから、誰か呼んでやってください。一生懸命こんな記事で御用学者の資格をアピールされています。

3.課題解決を実現するための財源確保の方法は?

 1970年代、高度経済成長が終わるまで、道路などのインフラをはじめ、数え切れないほどの公共サービスを行ってきた。低経済成長になった今、その公共サービスを誰の負担でやればいいのか。本来であれば、政治も政策も1970年代後半に大転換が必要だったのだ。

 それまでの高度経済成長期の政治及び政策は、利益配分型の政治政策だった。税収増を誰がどういう理屈で分けていくか――。それが、1970年代の後半からコスト配分型の政治、そして政策に転換しなければならなくなった。しかし、政治家はコストを選挙民に負わせようとせず、子どもや孫に払わせようと決めた。

 そういう政策選択をした当時の選挙民は、今の50代以上。自分の利益を子どもや孫に払わせるなどという厚かましい選択をしてきたのだから、すみませんと謝罪し、腹をくくって相続税なりで返済する決断をすべきだろう。それを消費税アップで自分たちが引き起こした財政難を補おうとは卑怯としか言いようがない。政治家も国民も己のしてきたことを反省してほしい。

これもおもろいな〜、

ここは財政負担論なので私は余り関りたくないのですが、とりあえず消費税には反対の姿勢である事は分かります。消費税反対でどこに財源を求めるかと言うと、

そういう政策選択をした当時の選挙民は、今の50代以上

ここから税金を搾り取れば財源は確保できるとの主張です。確かに高齢者の富裕層から財源を拠出しようの論議はありますし、それはそれで公平負担の観点から必要な論議だとは思いますが、過去の国政選挙の選択の失敗を理由にするという論法は初めて見ました。日本は説明するまでも無く間接民主主義で主権者である国民の信託を受けた代議員に国政を付託します。

付託された代議員が国会および内閣を形成するのが日本の政治形態ですが、その時の政治判断が結果として宜しくない時はあります。それはすぐさま目に見える形で現れる事もありますし、数十年先に結果として良くなかったもあります。この教授の主張は70年代の終わりに政策転換させる代議員を選挙民が選出しなかったのは選挙民の責任であり、その責任を今取るべきだと主張しています。

主権は在民ですから一応筋が通っているようにも見えますがやはり違和感を感じます。失政があった時、政治家は選挙でその職を失う事によって責任を取っているとも言えます。選挙民は自らが選んだ代議員の失政の損害を受け止める事で責任を取っていると私は考えます。ところがこの教授は選んだ選挙民が直接責任を取らなければならないとしています。少し筋が違うような気がしてなりません。

選挙民の中で多数派は政権与党を選んだのは事実ですが、少なからぬ人間がそれに反対の投票も行なっています。この教授の理屈では全体の多数が間違ったのであるから、連帯責任で反対派も同罪だとしているようです。増税の方向性としては意見の一つとして聞くぐらいの価値がありますが、増税の根拠としては如何なものかとは感じてなりません。

4.課題解決のためにご自身が行っている、あるいは行おうとしていることをお聞かせください。

 今、私が医療に関してできることは、とにかく知事に当事者意識を持ってもらい、周囲で活動を支援していくこと。医療を変えた、そんな地域を増やすこと。医師不足に関しても、どうにかなるのだとわかってくれば、日本全体が変わっていくだろう。まずは、現場主導で変わっている地域の存在を、どんどん紹介していきたいと思っている。

 130年、ないしは戦後50年の医療を大転換するのはたいへんだが、5年ぐらいで一挙にやっていかないといけない。自民党道州制を10年以内に敷くと言っているので、遅くとも10年以内にはすべきだろう。

 明日からできること、5年間でやること、10年以内にやること――整理していけば、誰が何をしないといけないかも見えてくる。

この教授の問題解決のキーポイントはあくまでも地方単位であるようです。まあ、

医療を変えた、そんな地域を増やすこと

この意見には同床異夢かもしれませんが基本的に賛成しますが、この教授が「変えた」は何を意味しているかはこの提言からは殆んど不明です。

5.我が国の医療政策に必要な、もっとも重要なキーワードなどを「ひとこと」で示してください。

「他人を信じなさい」

 これは主に医師に対するメッセージである。とにかく自分以外の他人を信じない――日本の医師の、最大の欠点だろう。かつて国鉄にいたとき、組織マネジメントのタブーとして「上位の者は下位の者の業務を代行してはいけない」というものがあった。駅長が助役の代わりをしたら、助役はいつまでも困ったら駅長に頼ってしまう。だから人を育てる、組織を育てるときには、上の者は下位の者の業務を代行してはいけない。手を出さないよう辛抱することが大事だ。

 でも、医師は違う。できなかったら「どけっ」と言ってすぐ自分が手術してしまう。看護士が失敗すると「なんだ」と叱って、やはり自分でやってしまう。それで、医師はますます忙しくなる。人と組織を育てる発想がないから、他人を信じる力が医師にないから、自分が忙しくなってしまうのだ。

 小学校、中学校、高校、大学と、周囲から「できる、できる」と言われて育ち、自分はできるという全能感を持ったまま現場に出る。だから、他人の力を借りるとか、自分の弱いところを出して助けてくれなどと言えない。人間の弱さへの共感もない。幅広い人間性に欠ける傾向にあるのだろう。

 違う言葉で言えば、人間の弱いところ、不安だとか恐怖感、甘えを、医師はそのまま受け入れることができない。結局、「私がもっとやらないといけない」となってしまう。

 もうひとつ例を挙げれば、「チーム医療」。「チーム医療だから私の言うことを聞け」と言う教授をよく見る。こういう医師は、チーム医療を野球からイメージしている。自分はチームの監督だから「私の言うことをきけ」とやる。そして、ファーストにはファーストの役割だけ果たせ、決してショートの役割などしなくていいと役割を限定してしまう。

 ところが、たぶんチーム医療の本来の意味は、ラグビーのイメージだ。監督は観客席にいて戦いぶりを見る。フィールドにいる者に一応役割はあるけれども、要は自分で考えて、今の場の雰囲気を読んでプレイをする。場を読み自分のポジショニングを考えながら点を取りに行く、トライする。これが本来のチームだろう。医師の場合なら、今、それぞれが何をしないといけないかを読み取って医療をする。これが本来のチーム医療だ。しかし、日本の医師は、これができない。ラグビーをイメージしたチーム医療をすれば、今の少ない数の医師でも、医療はまだ十分にやれるに違いない。

どうも既視感があると思ったら閣下と御同類の考えをされている医師である事がよくわかります。どうもこの教授の仕事振りは、

  1. できなかったら「どけっ」と言ってすぐ自分が手術してしまう。
  2. 看護士が失敗すると「なんだ」と叱って、やはり自分でやってしまう。
こういうタイプの指導医は確かにいます。はっきり言って嫌な指導医で、こういう指導医の下では医師が育ちません。しかし幸いな事にこういうタイプの指導医は少数派に属します。自分自身の狭い狭い指導ぶりが全国の医師共通と思い込むのは勝手ですが、一般化して高慢に語るのは今年限りの笑い話にして欲しいところです。

他人の力を借りるとか、自分の弱いところを出して助けてくれなどと言えない。人間の弱さへの共感もない。幅広い人間性に欠ける傾向にあるのだろう。

これもまた自分がそうだからと言って他人もそうだと信じ込む視野の狭さと思います。この教授の「幅広い人間性が欠ける」のは個人の問題ですが、そんな狭い見識で教授の意見としてチヤホヤされるのは日本の医療にとって大問題であるのだけははっきり分かります。ここでも最後に御用学者の資格を強くアピールしています。

ラグビーをイメージしたチーム医療をすれば、今の少ない数の医師でも、医療はまだ十分にやれるに違いない。

総合医礼賛の流れです。ただこれもラグビー選手の怒りを食らいそうな気がしてなりません。ラグビーもポジショニングはあれでしっかりしているものです。野球に較べれば定位置が素人目には見え難いかもしれませんが、すべてポジション毎の約束事で動いています。これを破っての個人プレーは厳禁なのがラグビーかと思います。だから、

要は自分で考えて、今の場の雰囲気を読んでプレイをする

そういう喩えに出すのは少々問題あるようにも思うのですが、それほどラグビーに詳しいわけではありませんから、これはこの程度にしておきます。


■総論編

パーツを見るだけで一苦労でしたが、この教授の医療政策への提言の中身は医師へはひたすら精神論に終始し、具体的な内容はなかなか見えてこない内容です。精神も重要ですが、精神論だけですべてを解決しようとするのはチト無理があります。医師の精神はここ数年で急激に変化しています。それをこんな陳腐な精神論一つですべて変えようとするのはかなりの机上の空論です。

また精神論が効果を発揮するには唱える人間に大きな信用を必要とします。簡単には「この人の言うことなら信用できる」の気持ちにさせる力です。最近なら小泉元首相がこの演出に巧みで選挙民はコロッと信用してしまったのは記憶に新しいところです。この教授にそれほど人を信用させる能力があるかと言われれば果てしも無く巨大な「?」がつくかと思います。

ただこれだけ空虚な精神論を展開する理由があるように思います。医師への提言に比べ異様に具体的な個所があります。再掲すると、

 国会や政党の法制審議能力を増強せよ

 国会で法制審議にあたるスタッフが、きわめて少ない。政党も同様。だから議員立法をつくる力が弱いし、政府が出してきた政策の検証をする力もほぼない。

 まずは、国会で法制審査をする人間を少なくとも今の10倍に増やすことが必要だと考える。政策を検証する内閣法制局に相当するような新たな組織を構築するのだ。そうすれば、その人間は議員の要請に応じて、国会、あるいは行政から出てきた基本データを検証し、政策の検証能力を高められるだろう。初めて政府には確かな政策の起案権が与えられ、国会に同意権を認められる。政策立案、政策評価ともに質が上がり、国が健全になっていくと思う。

ここで具体的に提案されているのは、

    政策を検証する内閣法制局に相当するような新たな組織を構築
ここは「内閣法制局に相当」としているぐらいですから、行政府の中に位置するような存在と考えるのが妥当かと思われます。そんな機関が行なうお仕事の成果は、
  1. 政府には確かな政策の起案権
  2. 国会に同意権
どうもなんですが、国会ではなくご提案の機関が政策を決定するように思われます。こう書いていくと思い当たるような機関があります。一番思い当たるのは経済財政諮問会議です。あそこは実質的に、
    議員の要請に応じて、国会、あるいは行政から出てきた基本データを検証
これをやっているかと思います。これに基づいて内閣の方針が決定されています。どうもこれをもっと肥大化させるのが
    政策立案、政策評価ともに質が上がり、国が健全になっていくと思う
こういう結果につながると力説していると解釈するのが正しいかと考えられます。この点を踏まえて見直すと主張全体の構成が、ちょっと見えてきます。主張全体は医療崩壊に対するこの教授の考える対策が書いてありますが、ごく簡単に言えば「医師が文句を言わずに粉骨砕身さえすれば問題解決」です。何度も繰り返し、医師はやりくりで足りるとの主張が行われています。「足りる」の主張も医療需要を野放しにして、現有戦力でこれに対応可能の主張です。その根拠は精神論です。

またこれも執拗に医師の問題を地方の問題に帰結させる主張が展開されています。国は医師数のコントロールにのみ責任があるとし、さらに医師数は精神論を注入すれば足りるの主張に展開していますから、国に責任無しの主張になります。国が責任を持つ医師数に問題が無いのであるから、責任は地方・現場にあることになり、現場には精神論で対応の構図です。

ここで地方に何を求めるかが具体的には書いてありません。書いてありませんが、強制的な計画配置を念頭においていると考えるのが妥当です。都道府県知事レベルで医師の人事権を掌握し配置する方針こそが求められる医療であるとの主張です。

もちろんこの教授が何を考え、何を御主張されようがそれは自由です。ただここまで政府や財界の主張をなぞるからには明確な意図があると考えるのが妥当です。これは様々に憶測されますが、ごく単純に「オレも有識者会議に入れてくれ」だと感じられます。自分の主張は見ての通り、政府の主張に一から十まで賛成で、御用学者として申し分ない資質があるとの主張をされていると考えるのがもっとも適切な解釈と私は考えます。この教授も来年は定年だそうですから、次の華々しい転職先を考えているのでしょう。いや、内定しているから嬉しくてこれを書かれたのかも知れません。


今年も一年間、本当に皆様ありがとうございました。最後はくだらない提言の解説になってしまい、締まらない〆になってしまいしたが、新しい年もよろしくお願いします。これで本年のブログ納めとさせて頂きます。厳しい時代は続きますが、せめて今日ぐらいは心から、


良いお年を♪