ノーベル賞受賞者の群像、(閑話休題、その1)

 この間、「大きな物語」ばかりを追っかけてきた。ふと気が付くと、身辺には面白くて大事なことがいっぱい起こっているというのに、ほとんど何も書いていない。それほど時代が風雲急を告げているということでもあるが、でも同じテーマばかりを書き続けていると却ってものが見えなくなることもある。「麻生辞任解散劇」の幕間を縫って、ときには「小さな物語」を閑話休題風に書いてみたい。 
 幕間(まくあい)といえば、つい先日、前進座の新春特別公演があり、「出雲の阿国」(有吉佐和子原作)を観劇する機会があった。私自身は名にしおう「文化音痴」の部類に属する人間だが、ゆえあって前進座の新春特別公演だけは観る機会が多い。今年は、「時の人」であるノーベル物理学賞受賞者の益川敏英氏も参加されて、午後4時の開演から11時近くの夕食会の終わるまで延々7時間近くもご一緒することとなった。30人近くの参加者は、飾らぬお人柄の「益川節」を堪能したことは言うまでもない。

 なぜ「文化音痴」の私が前進座の観劇会に参加しているというと、今回の観劇会を主催した「梅春会」「中村梅雀をささえる会」の両方に少しずつ関係があるからだ。「梅春会」(中村梅之助、桂春団冶の一字を組み合わせた親睦会)の方は、会の常連であった杉村敏正氏(元京大法学部長)のお供で会場の「梅鉢」というお茶屋さんに行ったことがきっかけだ。もう30年も前のことだ。

 「中村梅雀を支える会」の方は、「梅春会」のメンバーが高齢化したので、梅之助さんの息子の梅雀さんを中心にして集まろうということになり、京都の各大学から10人近くが呼びかけ人となって数年前に発足した。その呼びかけ人の1人が田中正氏(元京大基礎物理学研究所長)であり、田中氏が自称「野蛮人」の益川氏を3年ほど前に連れてこられたのである。

 田中氏は名古屋大学物理学科の坂田門下生で、益川氏の先輩に当たる。最近は『湯川秀樹アインシュタイン―戦争と科学の世紀を生きた科学者の平和思想 』(岩波書店)を上梓されたので、ご存じの方も多いだろう。湯川・坂田門下生には、恒久平和を求めて科学者運動を熱心に取り組んできた人が多い。日本が被爆国であり、物理学者が原爆開発と無縁ではなかったことがその原点になっているのだろう。当時は「門前の小僧」であった私も「原水爆禁止科学者の会」の1員として参加していて、その時から田中氏にはいろんなことを教わってきた。

 ノーベル賞受賞者というと、日本には僅かしかおられないので一般的には「別世界の人」のような気がするかもしれない。だから深遠な「象牙の塔」に籠って研究するイメージが強くて、益川氏のような「普通のお人柄」の学者に出会うと、世の中がびっくりするのである。でも、私のイメージは少し違う。市民生活にも気さくに関心を持ち、平和と民主主義のことを真剣に考え続けてきた人が多いのである。なかでも益川氏は京大職員組合の理学部のリーダーだった。当時の臨時職員問題の解決に真剣に取り組まれた方だ。益川氏の先輩の田中氏もまた京大の職員組合のリーダーだった。当時の一流の研究者は「両刀使いの名人」だったのである。

 日本人のノーベル賞受賞者の第1号は湯川秀樹氏である。物理学者としての湯川氏に関してはいろんなところで語り尽くされているので、ここでは案外知られていない面を紹介しよう。1960年代の京都大学には「教官研究集会」という厳めしい名前の集まりがあった。平たく言えば、各学部に分かれて研究している学者が一堂に会し、専門分野を超えて語り合う「研究文化サロン」だ。毎回のテーマや話題提供者を決めるために「世話人会」があり、各学部から錚々たる教授たちがその役を務めておられた。そしてその下働き役として、私のような若手研究者が数人いたのである。

 湯川氏には何回も科学と平和の問題について話をしてもらった。静かな口調で淡々と世界と日本の科学者運動のことを語られた。こんなことがご縁で、私が1970年に「京都の市電を守る会」の市民運動を始める時には、会の呼びかけ人になっていただいた。下鴨神社横の鬱蒼としたお屋敷の湯川邸にうかがってお願いしたところ、先生はもとよりスミ夫人も一緒に名前を連ねていただいたのである。しかし、もう40年も前のことなので、そのときに幾ら「カンパ」を貰ったかは思い出せない。

 そういえば、日本人最初のノーベル化学賞受賞者である福井謙一氏も比較的よく知っている。学生時代から教室の中で「工学部で最初にノーベル賞をもらうのは福井先生だ」と聞いていたので、実際に決まった時もさほど驚かなかった。また工学部には「助講会」という助教授と講師の集まりがあって、そこでの世話役の一人が福井研究室の助教授だったので、福井研究室にもよく遊びにいった。福井氏も湯川氏と同じく、若手研究者に分け隔てをしないで接してくれる温かい人柄の教授だった。

 驚いたのは、福井氏と同じくノーベル化学賞をもらった野依良治氏の場合だ。ニュースを聞いたときは全く思いだせなかったのだが、そうこうしているうちに「教養時代には同じクラスだった」という話が伝わってきた。教養部の2年間は第2外国語にドイツ語を選ぶかフランス語を選ぶかによって(その他にも幾つかの外国語があった)、工学部全体の中からクラス分けが行われる。その時に同じクラスだったのである。すでに半世紀も前のことなのでよく思い出せないが(その後もクラス会はしていない)、そういえばそうだったのだろう。

 こんなことで図らずも4人のノーベル賞受賞者を知っていることになるが、やはり印象深いのは湯川氏と現役の益川氏だ。お二人とも理学部出身で工学部出身とはどこか性格も行動様式も違う。基礎科学と技術科学という専門分野だけの違いだけではない。思想レベルでの本質的な相違点があるのだろう。これは益川氏が洩らされたことだが、氏は京大の定年後に1年間文学部哲学科に通って哲学の勉強をされたそうだ。こんな「突拍子もない行動」は、やはり益川氏ならではのものだと思う。