清水安三の北京時代

桜美林創立者清水安三の北京時代(桜美林学園のホームページから転載)

桜美林学園理事長/学園長 清水 畏三


 ■ご挨拶:

 本日は、北京大学(北大)の創立100周年を記念して開かれるシンポジウムであります。従ってまず北京大学の先生方に、心から「おめでとう」を申し上げます。

 さる5月4日、北京の人民大会堂で北大100周年記念式典が盛大に開かれたさい、私どもの佐藤学長をも招待して頂き、誠に光栄、感謝であります。ようやく桜美林大学も、世界の著名大学に仲間入りしたらしい……と思い、大いに喜ばせて頂きました。

 しかし北大の創立記念日が、本当に5月4日であるのか、私は疑問を抱きました。偶然、“五四運動"の5月4日であるはずなし。調べてみますと……、清朝の光緒帝が1898年7月4日、北大の前身・京師大学堂の設立を正式勅命した。丁度100年前です。しかしその直後、西太后が政権掌握、義和団が北京進入、8国連合軍が北京占領……という大混乱期が続いた。ようやく1902年12月17日、京師大学堂が正式再開された。以来、この12月17日が<校慶日>(創立記念日)になった……とのことであります。

 恐らく解放後、新生北大に相応しい創立記念日として、5月4日に変更されたわけでありましょう。さすが中国人、考え方が弾力的であります。但し、学生に天安門デモを奨励することにならないか……。

 まあそれはともかく、私は世界の大学史上、北大ほど波瀾万丈の闘争、苦難の道を歩んできた大学は珍しい、恐らく皆無ではないかと思います。再開できた1902年以降においても、北方軍閥政府(袁世凱、段祺瑞、張作霖)、南京国民党政府、日本軍の支配が相次ぎ、北大は強圧的に校名や組織を変更させられたり、解散させられそうになったり、校舎を占領されたり、奥地移転を余儀なくされたりしました。

 とりわけ日本は抗日戦争中、北大に大きな迷惑をかけました。北大が誇る文学院が所在していた<紅楼>は、日本軍憲兵隊の本部になり、その地下室で拷問が行われている、とのうわさでした。私は中学生時代、この<紅楼>前を自転車通学で通過しておりました。

 ■桜美林の前身:崇貞学園:

 さて主題に入らせて頂きます。
 私ども桜美林学園創立者清水安三先生は、1921年5月、北京市の朝陽門外において、<崇貞学園>(当初の名称は崇貞工読学校)と称する中国人対象の女子学校を創立しました。創立当初は、生徒数が60名足らずの小学校でありましたが、徐々に発展し、のち中学をも設置しました。

 清水安三先生は創立当時29歳、基督教の牧師でありましたが、なぜそのような中国人教育に乗り出したか。 それは……、崇貞学園創立の前年、華北5省が干害で大飢饉に見舞われたからであります。清水安三先生は自ら救済事業を企画して、朝陽門外に災童収容所を設置した。そして自分も妻も飢えた農村各地を荷馬車で回り、親から子供を預かった、それらの子供の数は799名、農村の収穫が回復するまで面倒を見て、親元に帰した。(その功労で、大総統・黎元洪から勲章をもらいました)。

 そのような体験の継続として、今度は教育事業に乗り出したわけであります。
 当時の朝陽門外は、ひどい貧民の町、親が幼い娘を売る、娘や人妻が売春するなど、極貧状況でありました。なぜかというと、中国の南北を結ぶ大運河が、その役割を終えた、そのため朝陽門外の輸送業務従事者が大量失業した。さらに清朝が倒れて満州族蒙古族の八旗兵が失職、没落した。

 (朝陽門は北京防衛のかなめ。明朝を倒した満州族義和団を鎮圧した8国連合軍の日本軍も、この城門を突破して北京占領した。そのため満州族および蒙古族の八旗兵多数が、家族と共に城外の“営房"=兵営長屋で共同生活)。

 要するに、朝陽門外においては、時代変化の打撃がとりわけ深刻であったからであります。
 (私自身が体験したのちの時代においても、現在、日本大使館もある日壇付近、まさに不潔、悪臭芬芬、一般人が往来できるところではありませんでした)。

 崇貞学園はそのような貧民の娘を教育する学校でありますから、生徒は授業料なし、学校で手工(刺繍)を習い、製品を作り、その工賃で家計を助ける……という文字通り働き学ぶ“工読"学校でありました。とはいえ学園の気風は、当時の<五四運動>の影響下、まさに意気軒昂でありました。例えば創立期に作られた校歌が、それをよく反映しております。

崇貞学園の校歌

(一)崇貞女校美如花 美徳教育冠中華 礼儀廉恥張四維 中華一統万古垂(折り返し)
   教育平等是平権 空説解放亦徒然 富強責任男女均 慶祝崇貞万万春
(二)我愛崇貞重知育 学有淵源文郁郁 光芒万丈呑四海 照耀東亜放異彩
(三)女児身体更宜強 体操唱歌楽洋洋 強国根基在少年 不譲男子著先鞭

 ところで、崇貞学園の董事長は張伯苓先生でありました。張先生は南開大学の創立者周恩来先生の老師であります。1937年7月7日、<芦溝橋事変>が突発、北京大学/清華大学/南開大学の3大学が、急ぎ北京から長沙に避難、臨時大学を設立、同年末の南京陥落後、昆明に移転、西南連合大学を設立しました。張先生も南開の校長として同行され、終始その運営任務をはたされました。(日中戦争初期、南開大学の抗日運動が激しいため、日本軍は校舎を空爆、大きな損害を与えた)。

 張先生は基督教徒でもあります。清水安三先生が残した思い出話によりますと……、張先生は甲午戦争(日清戦争)より少し前、青年士官、海軍中尉として北洋艦隊の軍艦に乗組み、大阪灣に停泊、たまたま大阪市内見物の通りすがり、<北野>という中学校の開校式典を見聞された。親切な人がいて来賓扱いにしてくれたが、張先生は日本語が全く分からない。しかし感銘を受けた。「日本は教育を重視している。中国も……」。(現在、この北野中学は大阪の最優秀公立高校)。

 そこで張先生は帰国後まもなく海軍を辞任、南開中学を創立した。<南開>という校名は、<北野>に対抗して名付けた……。 (本当にそうであるのか。<南開>とは、張先生が発明した固有名詞であるのか……。私は確かめるため、文化大革命終結後の南開大学を訪問したさい、質問しましたところ、わかりませんでした。しかし大きな収穫は、校内見学で周恩来先生が書いた「我愛南開的」という大きな石碑を見たこと、なぜ私立学校である南開が校名を残せ得たか……。恐らく張先生の人徳がしからしめたのではないか)。

 もう少し清水安三先生の思い出話を追加します。張先生は狭い三間房子(間口6m、奥行き4m)の南開宿舎に住み、極めて質素な生活振りであったそうです。清水安三先生は心から張先生を尊敬しておりました。それのみならず、張先生を模範とし、自分自身も張先生流の生活を心掛けておりました。

 ■交遊:魯迅、李大、胡適

 清水安三先生は文筆活動の人でもありました。日本国内の新聞や雑誌に寄稿したり、著述したり、「北京週報」(北京で発行)の主筆を務めたりして、“五四運動"以後の中国情勢を日本に伝え、舌鋒鋭く日本<軍閥>という表現で、その対中国政策を批判しました。

 当時の日本はいわゆる<大正デモクラシ−>の時代、幸い言論の自由が維持されていたからであります。 (言論の自由が抑圧されるのは、1927年以降の昭和時代、治安維持法が成立。軍国主義・対外侵略政策が進行し、1931年の満州事変=<9・18>に至るわけです)。

 “大正デモクラシ−"の時代といえば、その論客チャンピオン(主将格)は吉野作造先生(東京大学教授、政治学)であります。吉野先生は日本の対朝鮮政策や対中国政策を厳しく批判された。その吉野先生が清水安三先生の著書2冊(1924年出版、書名「支那当代新人物」「支那新人と黎明運動」)を、大いにほめられた。わざわざ序文を書いて、およそ次のように述べておられます。

 「序文などを書かないという年来の方針を破って、清水安三君の新著を紹介すべくここに筆をとる。清水君の本は非常にいい本だ。予が氏を知るに至ったのは、実は大正9年(1920年)の春、同氏が某新聞に寄せた論文に感激して、われから教えを乞うたのに始まる。同氏はいろいろの雑誌新聞に意見を公にされているが、ひとつとして吾人を啓発せぬものはない。今日の支那通の中で、けだし君の右に出るものはあるまいと信ずる」

 「清水君の論説する所は、ことごとく種を第一の源泉から汲んでいる。書いたものによってその人の思想を説くのではない。直接に氏の書中に描かれた人々と永年親しく付き合っているのである。このごときは清水君でなくてはできぬ芸当だ。何となれば支那の新人と接触してよくその腹心をひらかしむまでに信頼を博するは、ことに今日において我が同胞にほとんど不可能だからである。清水君はこの不可能をよくし得た唯一の人である」。

 清水安三先生の文筆活動は、“五四運動"から始まります。
 ▽1919年5月4日午後、北大学生が先頭に立つデモ隊が、天安門前から行進を開始しました。清水安三生はその日の目撃者、なかなか詳しいルポルタ-ジュ(現地報告)や、その意義を論じた文章を日本国内に寄稿しました。この日以後、彼の主張は一貫しております。要するに……、なぜ日本人がこれほど中国人から嫌われるか、醜い日本人の在り方、日本<軍閥>が中国の<権門>(北方軍閥)を籠絡してもだめだ、今や中国の民衆民意を味方にすべきだ…という論法であります。

 ▽1926年末、清水安三先生は論説を掲げ、南方の国民革命軍を支援しよう……と主張しました。日本人有志が武器を携え従軍志願せよ、というわけであります。
 彼自身は国民新聞(現在、読売新聞)の特派員として南方に赴き、1927年3月19日、九江にて蒋介石・総司令(当時39歳)との単独会見をスク-プしました。清水先生は蒋介石の人品から好ましい印象を得た。蒋介石の日本語は、流暢ではないが、よくわかる日本語であったそうです。 (蒋介石が北伐途上、新聞記者との会見に応じたのは、これが初めて)。(蒋介石はその翌日から南京攻撃、4月12日、上海で反革命共産党弾圧。国共合作時代が終結。南京国民政府成立)。

 清水安三先生はその後、武漢政府を取材して北京にもどりましたが、間もなく4月28日、友人・李大先生が刑死(当時38歳)、5月に入ると、日本政府(当時の首相は田中義一、対中国強硬論者)が第1次山東出兵を強行しました。もちろん清水安三先生は、激烈な出兵批判の論陣を張りますが、ともあれ、まさに歴史の転回点を身をもって体験したわけであります。

 ところで清水安三先生は、北大と深いかかわりがある魯迅/李大/胡適先生らと、親しく交わっていました。随分年寄りになってから、思い出話の中で、 「魯迅のような偉い人物は、日本からは出ない。会ったことはないにせよ、毛沢東もしかり。しかし李大に匹敵できる日本人なら、まあかなりいるのではないか」、 「自分は魯迅胡適にも親愛感を抱いているが、やはり李大に最大の親愛感を感じる。もっとも先方側で私に最も親愛感を抱いてくれたのは、どうやら胡適かもしれない」……といったことをもらしておりました。 (それには、恐らく年齢差が作用していると思います。清水安三先生は1891年生まれ、1881年生まれの魯迅先生より10歳年下、1889年生まれの李大先生より2歳年下、しかし胡適先生とは同年齢、血液型も同じO型)。

 ◇まず魯迅先生との交遊……。随分親しかったようです。清水先生の話によりますと、最初の出会いがなかなか面白い。

 当時、魯迅と周作人、この両兄弟は徳勝門に近い八道灣に住んでいた。周作人はすでに有名、魯迅はまだ無名であった。

 清水安三先生は日本からの有名人を案内して、しばしば周作人を訪ねていた。しかしある日、単独で周作人を訪ねたところ、門番が中国流の「没在家」。清水先生がねばって「洋車で1時間もかけてきた。なんとか5分間でもよい……」といっても、どうしてもダメ。

 その時、鼻の下に濃いヒゲを生やした中年男が姿を現わし、話しかけてくれた。「僕でよかったらいらっしゃいよ。お話しましょう」。そこで部屋に入れてもらい話し合った。その人がなんと魯迅先生であった。

 魯迅という人は、そのように本当に心が暖かい人柄だったそうです。とにかくそれがご縁で、清水先生は魯迅を日本に宣伝、有名にする一役をはたすことになります。魯迅日記を見ても、<清水>の名がかなり沢山、出てきます。 (魯迅が教えた女子師範学校の卒業生が、魯迅の紹介で崇貞学園の校長に就任。彼女は満州旗人、)。

 ◇次は李大先生……。清水先生は李大先生がまだ有名ではないころから付き合い、その名を日本に紹介、有名にしたそうです。

 李大先生の家は西単の石 馬胡同、清水先生は東単からしばしば訪れ、何時も非常に楽しかった。李大先生は日本的食べ物が好き、よく東単で材料を仕入れていた。甘い日本饅頭を持参すると、喜んでくれた。魯迅ほど達者な日本語ではないが、いつも日本語で会話した。日本人なら、田舎の村長さんなみ風貌、非常に親切でおだやかな人。いつも興奮せず静かに仲よくしゃべる人。「日本人に対して実に優しい感情を抱いていて、だれが訪れても親切に遇した」そうです。

 李大といえば、なにしろ中国共産党の大立者、北大で毛沢東主席を世話した人、“三一八"流血事件(1926年)の指導者でありますから、とかく闘志満々の英雄的人物をイメ-ジ(想像)したくなりますが、どうやら実像はかなり違うようです。

 李大先生が奉系軍閥につかまり、絞首刑で殉難(1927年4月28日)された直後、清水先生は5月8日付け[北京週報]誌上、その死を心から悼む、誠に感動的な長い弔文を捧げています。私は当時の中日関係において、そもそもそのような友情がありえたことに、いささかなりとも救いを感じる次第であります。 (私は文化大革命終結直後、石 馬胡同の李大先生旧居を捜し当てました。小さな家、現在の住人が親切、部屋を見せてくれました)。

 ◇次は胡適先生……。清水先生は“五四"直後、1919年6月から翌1920年にかけて、北大が招待したJohn Dewey(杜威)やBertrand Russell(百船羅素)の連続講演を熱心に聴講しました。その講演の通訳は胡適先生でありました。 (John Deweyは胡適が米国留学時代の恩師。清水先生の思い出話によりますと、ある日のラッセル講演で、ひとりの学生が起立、「先生 ! どうしたら中国は滅亡を免れましょうか」と質問した。当時は列強の間で<中国国際管理論>さえ提唱されていた。するとラッセルはやや考えて、「もしも中国に100人のGood men<好人>がいたならば、中国は亡びないでしょう」と答えた。それに感動した胡適らが、直ちに<中国一百好人党>を結成しようと聴衆に呼びかけた。参加志願者に署名が求められると、自分の指をかみ切り、血で署名する学生さえいた……。ついでながら、清水先生は李大追悼文の中で、彼がラッセルの著書をほとんど全て英語で読破していることを知り、その読書振りに驚いた……と記述しております)。

 清水先生は1924年7月から北京を離れ、2年間、米国留学しました。清水先生は新島 襄(恐らく初めて米国の大学を卒業した日本人)が創立した同志社大学の卒業生、しかも基督教牧師、教育者としてはJohn Deweyにつながる教育哲学の影響を受けている自由主義者でありますから、胡適先生と親しくなれても、むしろ当然ではなかったか……と思います。

 ところで“九一八事変"(1931年:満州事変)を経て1936年春、清水先生は中国内陸部各地、四川省まで長期旅行しました。国民党政府が着々と対日戦争を準備している。全面的戦争の暗雲が垂れこめている。それを肌で実感した清水先生は、北京に帰着後、直ちに胡適先生の家を訪れ、口を酸っぱくして戦争防止、中日平和のため、胡適先生が奔走されるよう訴えました。胡適先生は蒋介石総統の信頼が厚い人だからであります。

 しかし胡適先生はさっぱり耳を貸さず、煙草をスパスパ吸いながら、英語で「我々は日本と戦う」と叫び、「自分は以前、国民から嘲笑を浴びながらも、決して戦ってはならない、と主張した。しかし今や、どうしても一度は日本と戦わねばなるまい……と感じている」といわれたそうです。
 (その後間もなく、清水先生の妻・郁子が、南京に赴き、蒋介石総統夫人・宋美齢に面会、中日両国の女性が協力して戦争回避しよう……と直訴しました。これは日本の<婦人公論>誌に会見記を載せるという名目の会見、しかし宋美齢夫人はそのような和平説得に対して、断固、同感の素振りさえ示さなかった。すでに戦争を覚悟していたからでありましょう。宋美齢夫人が話す英語は、すばらしい最高水準であったそうです)。

 この年、間もなく“西安事件"が突発。胡適先生は翌年7月の“芦溝橋事変"に先立ち、清水先生に「北京を離れるからやってこい」といわれた。清水先生が出掛けていくと、「中日関係の前途から見て、もし貴方がいよいよ困るときがきたなら、遠慮なくやってきなさい」といった別れの言葉を残してくれたそうです。

 その後の胡適先生については省略します。(胡適は中日戦争の最中、駐米米大使、日本敗戦後の1945年9月、北京大学校長に就任)。

 日本敗戦後の1951年、清水先生がこの桜美林学園のため、戦後初めて渡米、募金旅行したさい、胡適先生はわざわざ Princetonからニュ-ヨ-クまで訪ねてきて下さったそうです。

 ■“芦溝橋事変"から日本敗戦へ

 時計の針をもう一度、“芦溝橋事変"の時点までもどします。事変後、清水先生をめぐる中日関係が一変しました。なるべく簡潔、あっさり申し上げますと……。

 ▽北京市内を戦場にしないよう、清水先生は中日両軍司令官に嘆願書(宋哲元軍が北京城から自発的に撤収する、日本軍はそれを阻止、追撃しない、という協定内容。北京大学の教授や米国人ら有力民間人が署名)を提出、両軍から同意を得る工作を推進しました。 (まず日本軍側が同意。かつて宋哲元に洗礼を授けた牧師が、宋哲元に嘆願書を届けた。その効果であるのか、7月27日、宋哲元軍北京撤収)。

 ▽崇貞学園の董事長が、張伯苓先生から銭稲孫先生に代わりました。この方は<偽北京大学>、すなわち日本占領時代における北京大学の校長です。(崇貞学園の生徒の中には、延安の抗日戦争に参加、解放後、北京副市長夫人になった女性もいます)。

 ▽1939年10月から翌年7月まで、清水先生は崇貞学園の資金を集めるため、米国に赴き、募金旅行しました。北京にもどると、<紅楼>の日本憲兵隊から出頭を命じられました。なぜかといいますと……。 ハワイで在住日系人相手に講演したさい、米国で大々的に報道された日本軍の南京事件、「そんなこと本当ですか」と質問された。清水先生はそれに対して、残念ながら事実は隠せるものではない……という立場で返答した。そのため批判攻撃され、日本領事館から呼び出され、日本に送還されそうになった。そのようないきさつがあったからであります。(相当長い期間、毎日朝、<紅楼>に出頭、夕方まで無言で坐っているだけ……。結局、米国で集めた寄付金を憲兵隊に寄付するという形で放免。その間、故郷の老母が死亡したが、帰国不許可)。

 ▽日本敗戦後、崇貞学園は接収されました。(解放後の崇貞学園は、市立朝陽中学になり、数年前から陳経綸中学と改名されています)。

 清水先生は1946年3月帰国、同年5月、この桜美林学園を創立しました。

 以上、一人の日本人をめぐる中日関係の歴史……という感じでお話申し上げました。ご清聴、有難うございました。