「一粒の麦」 愛知県設楽町

 3月の中部毎日新聞の地方版「東海ワイド」に賀川豊彦の小説「一粒の麦」の舞台を訪ねた記事が掲載された。三河地区の有志による運動の賜物だと考えている。三河地区ではキリスト教教会やみかわ市民生協を中心に賀川豊彦の“ルネッサンス運動”が立ち上がっている。昨年に「一粒の麦」が再版された。昭和31年に単行本として出版された。農村振興や友愛の精神をうたい、220版を重ねるベストセラーになり、1932年には無声映画としても公開された。しかし、1983年に社会思想社が発行した文庫本を最後に絶版になっていた。

 今年に入って、映画「死線を越えて」の自主映写会を開催、先週末9月20日には、世界連邦に関するシンポジウムを開くなど活発な賀川顕彰活動を行っている。備忘録として3月12日の毎日新聞の紙面を転載しておきたい。(伴 武澄)

 Kagawa Map

 文学YOU歩道〜中部の舞台を尋ねて〜(中部毎日新聞 2008.3.12)

 賀川豊彦「一粒の麦」 愛知県設楽町 社会の変革願う博愛精神

 愛知県の北東に位置し、長野県境と接する設楽町津具(旧津具村)。その山深い村里の一角に、明治・大正期、キリスト教の伝道に身を捧げた教諭、村井與三吉(故人)の記念碑がひっそりと建っている。碑文を揮毫したのが、津具を主舞台にした小説「一粒の麦」を著した賀川豊彦(1988−1960年)だ。
 賀川がここを訪れたのは神戸神学校(神戸市)に在学中の1909(明治42)年夏。患っていた結核の療養と伝道を兼ねて数カ月、滞在した。「病に侵され、死と隣り合わせの中で苦悶していたころです。村井先生の薫陶を受けるなどして、生きる価値を見いだしていったのではないでしょうか」。(賀川豊彦記念・松沢資料館(東京都)の杉浦秀典学芸員)は当時の心境を推し量る。
 伝道を使命と感じた賀川が実践の場として選んだのは、社会の矛盾が最も顕在化していた大都会だった。その年のクリスマスイブに、神戸市内の貧しい人々が住む地域に移り住み、苦しみを共にしながら路傍伝道を始める。その救貧活動の体験から。一歩進んで「防貧」の必要性を痛感し、やがて組合運動を通じて世の中を変えていこうとする。社会運動家の誕生だ。
 一方、文学者としてこの一編を世に出したのは津具で一夏を過ごしてから20年余たった31(昭和6)年。奥三河の貧しい山村に生まれた主人公の青年が、金をくすねたことに苦悩する中で信仰に目覚め、多くの苦難にぶつかりながら、新しい山村経営に生きる道を見いだしていくという筋書きだ。地元で賀川の活動を顕彰している元教諭の今泉昭郎さん(71)は「津具で暮らした経験に基づく描写が随所にちりばめられ、村井先生ら交流した人たちもモデルとして登場しています」と話す。
 山村経営のくだりでは、昭和初期の農村不況を背景に、救済策として自ら提唱していた「立体農業」(果樹栽培や畜産など)の手法も盛り込んでいる。「賀川の場合、文筆活動と社会運動が一体化していました。社会問題を小説で取り上げ、感化された大衆が主体的に運動に参加することで世の中を変えていこうとしたのです」と杉浦学芸員は説明する。
 文学者としての賀川にはこんなエピソードも残っている。津具を訪れる前年の08年、療養中の愛知県蒲郡市で仕上げた「鳩の真似」を文豪、島崎藤村に見せに行った。しかし、藤村の反応が鈍かったため、憤慨して涙したという。10年余り後、この原稿に神戸での体験を加えた「死線を越えて」を発表。空前のベストセラーとなり、懐に入る多額の印税を組合運動などにつぎ込んでいった。
 豊かになるが、心は貧しくなるだろう――賀川は敗戦後の日本にこんな警告を発していた。来年、神戸の貧しい地域に入ってから、ちょうど100年を迎える。モラルの荒廃や格差の拡大など、賀川の予言通りになっている今こそ、その博愛精神と実践に学ぶことは大きな意義があると思います。(杉浦学芸員)【松本宣良】