世界の賀川(3) オーストラリアの賀川

 もう一つ、エピソードを話そう。昨年春、賀川豊彦記念松沢賀川資料館の杉浦氏から「伴さん、こんなDVDをもらったんだけれども、ちょっと見てください」といわれた。オーストラリア人がつくった「フレッチャー・ジョーンズ物語」という1時間ほどのドキュメンタリーだった。フレッチャー・ジョーンズは、オーストラリアでは戦前からある有名なアパレルメーカー。「どんな人でも、どんなサイズでも、どんなおなかが大きい人でも、うちのズボンは合います」というキャッチフレーズで人気を集めた。
 ジョーンズは第一次大戦の欧州戦線に従軍して大変な目にあった。運良く生き残り帰還したが、中学しか出ていない。夢はテーラーになることだった。テーラーから身を起こして、アパレル企業を創業し、オーストラリアでは誰もが知っているメーカーに成長した。
 1929年の大恐慌時、ジョーンズの会社は無事だったが、周囲はどんどん貧しくなっていく。資本家はもともと資金があるから、大した打撃じゃないんが、貧しい人たちがどんどん貧しくなっていった。ジョーンズは「これは経済を変えていかなきゃいけない」と考え、経営を根本から変革しようと思った。内外の多くの経済書を読み、経営書を読んだ。その中に、賀川の本が1冊あった。ジョーンズは雷を受けたように「これだ」と確信した。内容は「協同組合的経営」に関するものだった。
 偶然だが賀川は1935年、伝道のためオーストラリアを訪問した。メルボルンに来た時、ジョーンズは面談を申し入れ、実現する。
「自分の稼いだ金は全部捧げないと神様に救われないんでしょうか」
「いや、そんなことはない。神様が望むようにあなたが使えばいいんだ」

 翌年、ジョーンズは来日した。賀川の協同組合的経営をこの目で確かめたかった。5カ月日本に滞在して、賀川の活動を観察した。賀川は関東震災後に本所で大々的なセツルメント活動を開始し、生活の拠点を東京に移していた。ジョーンズの見た賀川の事業はただコープショップがあるだけじゃなかった。そのまわりに学校や保育園があり、医療があり、質屋があり、全人格的な経営を行っているということに感動した。
 帰国してから「僕の会社は株式会社じゃだめだ、コーポラティブにする」と決意し、改革に着手した。実際に改革が実現するのは戦後のことだが、自社株の7割以上を段階的に従業員に譲渡してしまう。ジョーンズがオーナーだった会社はいわゆる社員持ち株会社となった。
 フレッチャー・ジョーンズ社は10年ぐらい前までは健全経営だったが、90年代に入ってさずがに中国からの安価なアパレル商品に押され経営が悪化する。
 「フレッチャー・ジョーンズの物語」を見終わってみると、1時間の間の1割以上が賀川に割かれていた。オーストラリアで2007年9月にテレビ放送されたののだった。どれぐらいの人が見たか分からないが、2000万の国民のうち数%は見ていただろう。数%でも50万ぐらいは視聴していたはずだ。どのような思いで見たのか非常に興味がある。「何だ、この人は」と思ったのか、もうすでに賀川を知っていたかもしれない。「やっぱりそうだ、賀川はすごい」と思ったかもしれない。
 日本で賀川を知る人はもはや神戸以外ではあまりない。完全に忘れ去られた存在といってもいいくらいである。日本人が知らない賀川をオーストラリアの数十万の人見ていたと思うだけでなにやらうれしくなってしまう。ドキュメンタリーをプロデュースしたスミス氏は昨年春、松沢資料館を訪れ、「次につくりたいドキュメンタリーは賀川豊彦だ」と言ったそうだ。(続=伴 武澄)
世界の賀川(1) 地球規模の発信
http://d.hatena.ne.jp/kagawa100/20090126/1233289837
世界の賀川(2) 賀川リターンズ
http://d.hatena.ne.jp/kagawa100/20090127/1233290989
世界の賀川(3) オーストラリアの賀川
http://d.hatena.ne.jp/kagawa100/20090203/1233748449