リスト::漫画作品タイトル
神坂智子によって1984年11月号から1988年8月号までのウィングスに連載された、シルクロードシリーズと並ぶ彼女の代表的作品。英国から裏切られ、アラブ人にも同化できなかったロレンスの、少年時代から晩年に至る壮絶な苦悩を描く。
特徴として、カルケミッシュ時代のハムディという作業頭との恋愛(途中からはフィクション)を根底に敷いている、という点が挙げられる。厳格なカルヴィン教徒であった母との齟齬によって生まれた、ロレンスの性的指向、とりわけマゾヒズムとホモセクシュアルに着目した点は、非常に「少女漫画らしい解釈」だが、不自然な描き方ではなく、神、英国、もしくは規律そのものに対してアンビヴァレントな感情を持ち続ける彼の苦悩と合わさって痛々しくすらある。
トマス・エドワード・ロレンス(Thomas Edward Lawrence, T.E. Lawrence)は後年T・E・ショーと改名し、また「アラビアのロレンス」として最も良く知られている。「アラビアのロレンス」のイメージはアメリカの旅行ジャーナリスト、ローウェル・トーマスに拠るところが大きく、同じくよく売れた彼の自伝『知恵の七柱』もそれを補強した。一般に第一次世界大戦におけるアラブ解放の立役者、といった英雄視をされることが多いが、アラブ側におけるイメージは必ずしもそうでないことも指摘され、その評価は今日まで一定ではない。
北ウェールズ、カーナヴォン州トレマドックという田舎町で生まれる。イングランドとアイルランドの血を引く父トマス・チャップマンは妻との間に三女を儲けるが、暴力的な妻に対し敬虔なカルヴィン教徒であった娘たちの家庭教師・セアラに次第に心惹かれ、財産も姓も捨てて二人で家を出る。そして儲けた男子5人のうち第二子がトマス・エドワード・ロレンスであった。幼かったT・Eたちにとって、自分たちが嫡出ではないこと、そして母セアラの敬虔さはそれなりの影響を及ぼしたと考えられており*1、5兄弟の中で結婚したのは末のアーノルドだけであった。
スコットランド、マン島、ジャージー島、フランスのブルターニュ、ハンプシャーのラングリーを転々とした後、オックスフォードに定住する。ロレンスはオックスフォードのハイスクール時代から優秀な成績で、オックスフォードのジーザスカレッジを再優等学位で卒業する。卒論は『十字軍の城砦*2』で、彼がかねてから自転車で回っていた英国とフランス、そして卒論のために赴いたシリア・ダマスカスの城をみて、ヨーロッパは十字軍によってもたらされたアラビアの築城法に影響されたという通説を覆し、十字軍がヨーロッパの築城法を伝播したことを証明した。また、ハイスクール時代は勉強だけでなくスポーツも万能だったが、1904年(16歳)の時足を骨折して身長が伸びなくなり、後の軍隊での身体検査などで身長は166センチだったと言われている。カレッジに入ると、カレッジにつきものの集団活動には殆ど参加せず、本ばかり読んでいたといわれている。必修科目の出席も足りず、その分を卒論でカバー。しかし、奨学金は貰い続けていたので、やはり優秀だったことには違いない。
1910年、考古学者になると照準を定めてベイルートでアラビア語を学ぶ。翌年1911年には師にあたるホガース博士と共に、大英博物館のカルケミッシュ発掘に携わり、1912年にはホガースは去りウーリーの下とはなるものの、発掘は1914年まで計6回、断続的に続いた。1913年には、人夫頭のハムディと作業員ダフームをオックスフォードの自宅に招待している。一方で、1913年12月下旬から1914年2月まで、英国軍の測量を考古学的なものに見せかけるために、ウーリーと共にシナイ半島を測量する。この時にアカバ、ペトラを訪れ、それが彼の以降の活躍に繋がることになる。
1914年7月に第一次世界大戦が勃発すると、オスマン帝国(トルコ)・ドイツの同盟国側を抑えたい連合国側は、トルコに支配されていたアラブ人に反乱を起こさせようとしていた。ロレンスは中東に関する知識をこの戦いに役立てようと決意し、1914年に入隊、まずロンドンの地図局、1914年12月以降はカイロの情報部で勤務し、カイロではガートルード・ベルと共に地図を作成していた。
1916年6月、メッカの大シェリフがアラブ反乱を布告する。前年出されたフセイン=マクマホン書簡によってアラブ反乱を支持する立場にあった英国のロレンスは、その年にシェリフ・フセインの三男エミール・ファイサルと出会い、アラブ局の配属となったことでファイサルの軍事顧問となり、アラブのベドウィンによる非正規兵を指揮した。それはラクダ・砂漠を上手く利用したゲリラ戦で、鉄道の破壊によってトルコ軍の補給を不可能にした。この年には既にサイクス=ピコ密約協定を知っていたと考えられている。1917年、自身の非正規兵たちと、アウダ・アブ・タイのもつ軍を合わせて、戦略的に重要な港アカバに行軍、砂漠に面した陸から攻め落とすことで陥落させた。その一方で英国はユダヤにもエルサレムを渡す約束(バルフォア宣言)をし、三枚舌外交をしていた。1918年、デラアを陥落し北上、10月1日ダマスカスにアラブ軍と共に入城し、10月30日にはトルコが連合国軍に降伏した。しかし、ロレンスは10月4日に早々と帰国を申し出て、4年ぶりとなるオックスフォードへと帰ってしまった。
帰国後もサイクス=ピコ協定を無効にすべく運動していたロレンスは、短い外務省勤務の後に、フェイサル側の代理人として1919年のパリ講和会議に出席する*3。アメリカのジャーナリスト、トーマスによるフィルムは400万人を動員し、ロレンスは有名になりはじめていたので、マスコミも彼の意見に注意を払うようになってきていた。1921年は後の首相ウィンストン・チャーチルの下で植民省の特別顧問として働いており、その年にフェイサルはイラク王となった。
しかし、1922年からロレンスは匿名性を求め始める。ジョン・ヒューム・ロスとして英国空軍に二等兵として参加したのだ。しかしこれはデイリー・エクスプレス紙に暴露され、除隊されて、翌年渋々ながら陸軍戦車隊へと入ることになる。このようにマスコミはしばしばロレンスを煩わせた。その後は陸軍において執筆をするが、結局1925年、数度の要請の末空軍復帰を許可される。1927年にはインドのカラチで勤務。しかし、今度はマスコミがロレンスがアフガニスタンでスパイ活動に参加していると騒ぎ立て、1929年に海外勤務を断念して帰国した。
それからは、空軍で高速艇を専門とする。1935年、空軍を満期で除隊。かねてから彼が住んでいたクラウズ・ヒルとロンドンをマスコミに追われ行き来する。5月13日、クラウズ・ヒルの付近で空軍入隊の1922年から愛好していたオートバイに乗っていたところ、前方から来た2台の自転車を避けようとして転倒、5月19日意識を取り戻さないまま死亡した。享年46歳。今はドーセット州モートンの教会に眠っている。