Jean-Baptiste Lully (Jean-Batiste Lulli)
→ジャン=バティスト・リュリ
1646年、モンパンシエ公女のイタリア語教師として、フランスに渡る。この時、音楽といわゆるバロック・バレの勉強を本格的に行う。その後もパリにとどまり、20歳の時に、14歳のルイ14世に認められ、王のお抱え音楽家となった後は、国王の寵愛を一身に受け、宮廷内音楽職の重要ポストをすべて占めるに至る。当時の「バレ」Ballet は5つの基本ステップから派生する複雑なステップを、踊り手が記憶し、それを披露するという舞踏だった。ステップを記憶するために舞踏譜と呼ばれる、楽譜に相当する記載法も発達していたが、19世紀以降の「バレエ」との違いを述べるとするなら、それは足のポジションにも端的に現れ、180度に左右の踵が開くということが前提となる「バレエ」とは異なり、「バレ」では90度以上につま先を開けることは要求されなかった。もちろん、女性ダンサーを持ち上げる「リフト」なども、「バレ」にはなかった。
さて、1661年からはモリエールと共同で、劇、音楽、舞踏の総合芸術「コメディ・バレ」Comédie-Ballet を創作、 1673年以降は、時代の要請をうけてオペラの上演を積極的に行い、フランス様式のバロック・オペラを確立した。当時の「フランス・オペラ」の最大の特徴は、イタリア・オペラに比べて、歌のしめる比重がとても小さく、台詞を朗誦し、その間にバレが挟まれるという独自の形式を持った。また、リュリが創始したいわゆるA-B-Aの三部構成になる「フランス序曲」の様式は、全ヨーロッパ的に広まり、バッハやヘンデルも多用するにいたった。
その後、数々のスキャンダルに巻き込まれたリュリは、王から見放されてしまうのだが、それでも彼の王への忠誠心と愛は変わらず、1687年に国王の病気回復のための「テ・デウム」を演奏中にて指揮杖で 自分の足を打ち、その壊疽が原因で死去した。
「王と踊った足は切れない」といって、最後まで手術を拒否したというが、なんとも泣ける話ではないか。
1986年12月、ウィリアム・クリスティ/レザール・フロリサンがジャン=マリー・ヴィレジエの演出で、イタリアで《アティス》Atys を蘇演し、翌年パリのオペラ・コミークで上演を始めるや音楽界の事件とも呼べるセンセーションとなり、以来バロック・オペラの復興が始まり、次々と彼の作品が復元され上演されるようになった。
なお、ユゴー・レヌ Hugo Reyneは全舞台作品の録音と演奏会上演を敢行している。
Lully-Moliere: Les Comedies-Ballets (excerpts)
Lully ou le Musiciens du Soleil, Vol. VII: Isis