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フリードリヒ・シェリング

(読書)
ふりーどりひしぇりんぐ

1775.1.27−1854.8.20

ドイツの哲学者。

ルター派神学者の家庭に生まれ、ヘーゲル、ヘルダーリンらとともにテュービンゲン神学校に学ぶ。在学中に哲学に転向し、早熟な活動を開始。ゲーテに『世界霊について』の論文で認められ、1798年、イエナ大学助教授に就任。イエナ全体に当時のドイツを代表するキラ星のような才能が集まっていた時期で、その中でもF・シュレーゲル夫妻とは特に親しかった。ただし、シュレーゲル夫人カロリーネとの仲は昂じてやがて恋愛沙汰となり、1803年に夫と離婚したカロリーネと正式に結婚。1806年、ミュンヘン大学が開校され、哲学教授に就任。大学で講義を行うと共にバイエルン王国王太子、マキシミリアン(のちのマキシミリアン2世、「白鳥王」ルートヴィヒ2世の父王)の家庭教師としての功績を評価され、貴族に序せられる。学問好きのマキシミリアンと哲学者の関係は終生続いた。
しかし、1807年、少年時代以来の大親友だったヘーゲルの『精神現象学』でシェリングの「同一哲学」が批判され、両者以後決別しただけでなく、シェリングはヘーゲルにとっての最大の論敵の一人となった。
1841年、ヘーゲル亡き後のベルリン大学に招かれ、いわゆるヘーゲル学派の人々とは対立するが、シェリングは哲学者として持続的な影響力を持つことができず、46年からは事実上の引退生活を送ることを余儀なくされ、54年の死まで未完原稿に手をいれていた。

シェリングの哲学は、

(1)デカルト以来の機械的二元論を否定し、自然を有機的全体として捉えた「自然哲学」から、主体と客体の絶対者における統一を説く「同一性哲学」に移行していく前期(1797−1804)。

(2)イエナ大学での初期ロマン派のノヴァーリスシュレーゲルなどの人々との交感を通じて「芸術とは無限なる物を有限なる形式の中で表現する」という『芸術哲学』(1802−03、59年没後刊)などの時期。

(3)ベルリン大学での「善と悪」、「死後の霊」、「神話と啓示」といった神智学として退けられてきた挑発的テーマを含む後期の思想(1841−46、死後に遺稿が発刊)。

などに大きく分けられる。

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