【Bertrand du Guesclin】
生没年 1320年 - 1380年7月13日
中世フランスの軍人。英仏百年戦争前半に活躍し、フランスの劣勢挽回に大いに貢献した。
同じ百年戦争でも後半に登場するフランスの聖女ジャンヌ・ダルクに比べ、その活躍ぶりの割には日本では知名度が低い。
- 1320年 ブルターニュ地方ディナンの下級貴族の長男として生まれる。少年時代から乱暴者として地元では有名だったが、長じて奇襲や夜襲など少ない兵力を有効に活用するゲリラ的戦術を得意とした武将に成長する。
- 1356〜1357年頃まで英仏代理戦争でもあるブルゴーニュ継承問題の争いにてシャルル・ド・ブロワ側として戦った。
- 1364年 フランス王継承の戦いでは、シャルル王太子(後の賢明王シャルル5世)に味方し、ナバラ王シャルル2世と戦ってノルマンディーのコッシュレルで大勝利した。再び勃発したブルゴーニュ公領継承戦争では、イングランド軍に敗れ捕虜となるが、シャルル5世の払った身代金によって解放された。
- 1366〜1367年 社会不安の原因となっていた、職にあぶれた傭兵たちをまとめ、後継者争いの渦中にあるカスティリャに赴く。王弟エンリケ・ド・トラスタマラを押し立てたデュ・ゲクランは各地でペドロ残酷王の軍勢に勝利を収めるものの、ペドロが援助を依頼した黒太子エドワードのイングランド軍が急行すると、持久戦に持ち込むが最終的にはナヘラにおいて敗北し、再び捕虜となり身代金と引き換えに解放されている。
- 1369年 フランスに逃げ込んでいたエンリケを支援して再びカスティリャに攻め込み、王位をエンリケの手に奪い返す(カスティリャ王エンリケ2世)。続くイングランドとの戦いでは奇襲や補給戦を立つといった戦術を駆使し、カスティリャ海軍の支援もあって、次々とフランス国内のイングランド拠点を陥落させた。
- 1370年 シャルル5世により、それまでの功績を称えられて、大元帥に任じられる。
- 1374年 ランカスター公が軍勢を率いてボルドーに侵入したが、デュ・ゲクランの働きによって撃退。
- 1375年 敗勢続くイングランドとの間にブリュージュ条約が結ばれ百年戦争は2年の中断を迎える。この条約によってフランスはほぼ戦前の旧状に復した。
- 1378年 シャルル5世の命により、ブルターニュ攻略戦に参加。
- 1380年7月13日 南仏平定途中にて病死。シャルル5世の命により、王族のみという慣例を破って王家の墓所パリのサン・ドニ教会に遺体を埋葬される。*1
ベルトラン・デュ・ゲクランを描いた小説
佐藤賢一『双頭の鷲』上・下巻 2001年6月 新潮社
