いつも一部分だけが上演される演目には理由があるのだと思う。芝居を見るとき、筋を追って見るのか、それとも瞬間瞬間の「味わい」のようなものの積み重なっていく様を見るのか、古典芸能として十分に成熟しさらにそのある意味排他的な特性によって役の後ろに役者が、役者の後ろにその系譜が浮かび上がってくる歌舞伎においては後者の楽しみ方が占める比重が大きい。もちろんその「味わい」のようなものは物語の筋のなかで成立しているものではあるし、例えば仮名手本忠臣蔵の六段目や七段目のように大きな歴史のなかでの個人の悲哀というような骨太なストーリーそのものが感動を呼ぶこともあるのだが、一部だけが上演される演目は物語全体の筋が…