西洋の最先端の築城術を学び、見事に戸切地陣屋として具現化した藤原主馬でしたが、それで勝てるほど戦争は甘くはありません。勝敗は城や兵器をどう運用するかで決まるのに、残念ながら多くの藩士にとって主馬が江戸で学んできた理論や藩主・崇広の推し進めた施策は当時の理解を超えたものだったようです。せっかくの〈日本初の星形城郭〉もその真価を発揮することなく、その役割を終えることになります。 前回の記事:3-3.「日本最初の星の城」の原典への旅(3)-「野崎の丘」に実を結んだ19世紀フランス「砲戦の時代」の防衛構造・戸切地陣屋- こうして藤原主馬の手によって、サヴァールの著した欧州の近代陸戦理論に対応した砲戦陣…