・1348年(和暦貞和4) 10.27以前 益仁親王は諱を興仁と改めた。(『親長卿記』長享3.9.3) ・1348年(和暦貞和4) 10.27 光明天皇の譲位により、興仁親王は践祚した(崇光天皇)。直仁親王は皇太弟となり、二条(藤原)良基は関白を続けた。(『園太暦』) ※直仁親王の母方の伯父,正親町(藤原)公陰の妻は、赤橋流,北条(平)久時の娘である。足利(源)尊氏の妻も久時の娘,登子である。そのため、尊氏には彼にとって義理の甥である直仁親王の後見を任せることで、北朝の存続を図ったとも考えられる(家永遵嗣「光厳上皇の皇位継承戦略と室町幕府」『室町政権の首都構想と京都』)。 ※光明院の兄である光…