新府城本丸に祀られた武田勝頼の廟祠と家臣の霊柱 正式には、新府中韮崎城という。 甲斐を治めた武田信玄の死後、実質的に跡を継いだ子勝頼は、高名な父の名声を打ち消すように、天正2年(1574)に信玄が落とせなかった高天神城を攻略し、武名を轟かせた。しかし、翌年の三河侵攻の際、無謀とも言える兵力差を押して長篠城外の設楽ヶ原で織田・徳川連合軍と決戦に及び、多大な犠牲を出して敗れてしまう。 これにより、家臣団や領国経営に動揺が走り、勝頼は家中の引き締めを図るが、その過程で、重臣穴山信君が織田・徳川連合軍の侵攻に備えてこの地への築城を進言したといわれる。 また、祖父信虎や父信玄が本拠とした躑躅ヶ崎館は、丘…