戦後のプロ野球選手、西鉄ライオンズの監督。
右投右打、ポジションは投手・外野手。背番号は21番*1。
1921年5月7日生まれ。佐賀県鳥栖市出身。
久留米商業から満州鉄道を経て、1940年、南海軍に入団。
1942年、応召。
戦後、1946年に読売ジャイアンツに入団。投手として活躍。打撃も良く、1946年4月26日には1試合3本塁打を記録。
1949年、戦後の日米野球第1戦で先発登板。
1950年、宇高勲の手引きにより、西鉄クリッパーズ創立と共に入団。
1951年に西鉄ライオンズになると、宮崎要と共に、かつての師である三原脩を招聘。
1950年代ライオンズのエースとして活躍。1953年、24勝15敗、防御率1.98で最多勝と最優秀防御率の二冠を獲得。
外野手としても出場した。
1957年、現役引退。通算成績は188勝151敗。
1958年、コーチに就任。
1960年、三原脩の退団を受けて、監督に昇格。
1962年、フロント入りし、球団常務取締役となる。
1967年、藤本定義に招聘され、阪神タイガースの投手コーチに就任。江夏豊を育てた。
退団後は、東京でうどん屋を経営。
1979年からは鳥栖市で喫茶店を経営していた。
その後は久留米市に在住。久留米井筒屋内での喫茶店経営、RKB毎日放送の野球解説者を務めた。
1985年、西鉄ライオンズOB会発足と共に、初代OB会長に就任。
OB会長として、池永正明をはじめとする選手の名誉回復、
西武ライオンズとのOB会統一活動*2に大きく貢献した。
2006年4月25日、胆管がんのため久留米市内の病院で逝去。