谷崎潤一郎の尊称。
谷崎潤一郎も一応一区切りつけて、この ムックを読む。 江戸、戦争、阪神間、女性、人となりを 俯瞰する。わがままに自分に正直に生き た人だった、戦時にも彼なりの抵抗もし た、現代なら炎上しただろう。 大谷崎らしい大人物だったと理解した。 別冊太陽236 谷崎潤一郎 (別冊太陽 日本のこころ 236) 平凡社 Amazon ktoshi.hatenablog.com
日本人で名字の上に「大」の冠が付く人といえば二人しかいないだろう。大西郷と大谷崎だ。大西郷といえば幕末維新に広く知られたことで、大隈重信もそれを書いている。大谷崎と言い出したのは三島由紀夫じゃないかと思うがどうだろう。まだ10代の頃は最も苦手にしていた谷崎。何しろ改行が少なく字が小さい。さらに内容が難しそうで、さしあたり読んだのが『知人の愛』、今となっては『細雪』『猫と庄造と二人のをんな』『瘋癲老人日記』『鍵』『蓼喰ふ虫』など読んだが、さすがに『少将滋幹の母』は平安王朝風絵巻のようで難しい。併し、読むに従い本書がかなりの名作というのが解かってくる。谷崎本人もこれにはかなり自信を深めていたようで…
うすらひは深山へかへる花の如 藤田湘子。こののち薄氷(うすらい)を目にすることなど最早なさそうな京都の暖かかった冬であるが、この薄氷の句はいわゆる「詩的」な句である。遠くより来りて張りし薄氷(うすごおり) 阿部青鞋。この句も「詩的」であるが、寒さが遠くからやって来るという「感じ」がよく出ている。「うすらひ」が「深山へかへる」とは、いわばやって来るその逆の様子なのであろうが、「花の如」とはどういう意味か。俳句で詠む「花」とは「桜」のことであるから、「花の如」は「桜の如」である。儚(はかな)い薄氷が消え失せた、まるで桜の花びらが風に飛ばされ空の彼方に見えなくなるように深い山懐に帰っていったのかもし…
谷崎の初期短編集の2編を読んだ。 性的倒錯というよりも耽美というのか、 そういう作品である、どう読み取るのか はわからない、でもともに1910,11年の 発表、明治の終り、大正デモクラシーの 到来か、とくに「秘密」の現代性は、よ くぞその時代に書かれたものだ。まだ、 大谷崎とよばれる所以がよくわからない。 刺青・秘密 (新潮文庫) 作者:潤一郎, 谷崎 新潮社 Amazon
2023年10月12日、霞ヶ関での会議出席のため早朝の新幹線に乗る。久しぶりの早朝からの行動のため、頭と眼が働かない。指定席に腰を下ろして、コックリと眠ってしまった。 ↑新大阪駅↑名鉄特急(名古屋駅を過ぎて)↑松重閘門(名古屋市)が右奥に写っていた↑富士山を写したつもり↑富士山は見えず 東京駅に無事に到着した。ポスター(東京駅まつり)が目に飛び込んできた。山手線有楽町駅で下車する。↑東京駅で 山手線有楽町駅で下車。まず腹ごしらえする和食店を探す。東京交通会館の地下1階の郷土料理店で空腹を満たす。五島うどんが美味しかった。 日比谷公園を抜けて、霞ヶ関の官庁街に向かう。 そうだ。第一生命ビルを拝見…
今日は早番だった。昼休み、いつものように英語でメモを書く。ふと、「どうして自分は英語を勉強するのだろう」と考えてしまった。これに関して、私ははっきりした目的や方針を持っていない。別段私は仕事で役に立つから英語を学ぶわけではないし(たぶん上司からすれば、前にも書いたが私の英語学習は日曜大工や釣りのような「変わった趣味」でしかないだろう)、資格を取りたいとも思っていない。海外に旅行に行くプランも立てていない。こんな言い方をすれば問題があるとも思うが、強いて言えば私の英語学習は「暇つぶし」というのがしっくりくるのかもしれない。「暇つぶし」。それは深沢七郎が「生きているのは暇つぶし」と言い放ったのと同…