陳勝呉広の乱の首謀者。?〜紀元前210年
紀元前210年7月、呉広とともに農民900名を率いて大沢郷で反乱を起こす。
反乱は成功し張楚を建国、一時は函谷関を突破するほどの大勢力を持ったが、秦の将軍・章邯の反撃を受けて首都を落とされ敗北、下城父まで逃げたところで御者の荘賈に殺された。
陳勝の死後、対秦の戦争は楚の項梁*1によって引き継がれ、劉邦が武関を破るに及んでついに秦王・子嬰が降伏し、紀元前206年、秦は滅ぶ。 しかし、その後も中国の内乱は終息せず、漢の劉邦と楚の項羽の争い、いわゆる楚漢戦争へと発展していく。
中国を統一した劉邦は陳勝を尊んで墓所の周辺に民家を置き、代々墓守をさせた。
陳勝は反乱の当初、始皇帝の長子である扶蘇を名乗っていたが、張楚の建国後に彼の知人が馴れ馴れしく訪ねていったところをみると、どうやらすぐにばれたらしい。
彼が反乱時に吐いた言葉は有名である。
「王侯将相寧んぞ種あらんや(人間に王侯将相の種族の別があろうか)」
また、彼は雇われの農民であり、ある時雇い主に対してこんなことを言っている。
「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや(小人に大人物の志が理解できようか)」
*1:項羽の季父