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伏見宮博恭王

(一般)
ふしみのみやひろやすおう

1875年10月16日 - 1946年8月16日。
日本の皇族、海軍軍人。伏見宮貞愛親王王子。


貞愛親王の第一王子・愛賢王として生まれたものの、実母は父の正妃利子女王ではなく、妾腹であった。そのため、王は伏見宮の継嗣となることが出来なかった。能力主義の商家とは違い、大名・公家では嫡庶の序をより重んじた傾向に加え、明治以降の西洋との関わりにより、一夫一妻制の西洋に倣うべきとの考えが広まったことも、この理由の一つである。事実、父である貞愛親王も、伯父で先代伏見宮の貞教親王も、数人の兄たちを飛ばす形で宮家を継承出来たのは、兄弟が共に祖父邦家親王とその正妃邦家親王妃景子との間に生まれた嫡出子であったことに起因する。このため、愛賢王の将来は決まっておらず、当時の皇室に関する太政官布告によれば将来的に臣籍降下し華族に列せられる運命にあった。
一方、王の多くの叔父たち、即ち邦家親王の庶子たちは明治維新の時点で僧籍にあったものの、その後の勅令で次々と還俗することとなり、健康に問題のない限りほぼ全てが新たな宮家を立てていた。華頂宮博経親王もその一人であり、還俗後は精力的に天皇の周りを支え、外遊なども行ったが、無理がたたり明治9年(1876年)に26歳で薨去してしまった。当時の布告により、旧来からの4つの世襲親王家を除く宮家においては、一代限りの存続とし、その後の子供たちは臣籍降下して華族に列するとしていた。しかしこのことを気の毒に感じた有栖川宮熾仁親王ら周囲の人間の嘆願もあり、博経親王の子博厚王が天皇特旨により華頂宮を継承した。この例を起因として、一代宮家とされた新設宮家たちの世襲も徐々に認められるようになる。ところが博厚王は8歳の若さで薨去する。これに対し、またも天皇は特旨を持って華頂宮の存続を決定。先ず博厚王を猶子・親王宣下により博厚親王とし、華頂宮自体の継承に関しては、新設宮家たちの総本家に当たる伏見宮から王子を一人出すことで存続させるとした。この時選ばれたのが、行先の決まっていなかった愛賢王であった。愛賢王は華頂宮継承に際して、名を博恭王と改め第三代華頂宮となった。
ところが、実系である伏見宮の家督を継承するはずであった、弟宮で利子女王の実子である邦芳王(くにかおう)は極めて病弱であり、加えて貞愛親王と利子女王のもう一人の男子、昭徳王は夭折していた。このため、博恭王は第一王子の博義王と共に伏見宮に復籍し、貞愛親王の継嗣となった。華頂宮については、第二王子で僅か2歳の博忠王に継承させて4代目とした。
このような経緯があるため、博恭王は伏見宮の代々の諱に用いられてきた『貞』『邦』の字のない諱を持つ当主となり、博恭王以降は自身の嫡男・嫡孫にも『博』の字を諱の通時として名付けている。

軍人として

当時の皇族軍人は実質的権限を発揮しないのが通例になっていたが、実戦・実務経験豊富な博恭王はお飾りの皇族軍人ではなく、「潮気のある」一流の海軍軍人としての風格を持っていた。自ら率先して最前線に立ち、常に部下将兵を鼓舞し苦楽を共にするのを厭わない姿勢や、操艦の名手として関門海峡のような「船の難所」でも難無く艦を操るその実力は海軍内でも評価されていた。
また、海軍での生活や習慣が身に付いていた博恭王には皇族らしからぬ逸話が残っており、入浴後、皇族であれば湯かたびらを何枚も着替えて体の水分を取るのが普通であるが、博恭王は一般の庶民と同じように、使っていた手ぬぐいを固く絞り、パンパンと払い伸ばしてから体を拭いていたという。下着の洗濯などは自ら行うこともあり、周りの者から「いつその様なことを憶えられたのですか?」と聞かれると「海軍では当たり前である」と答えたといわれる。また嶋田繁太郎の日記によると、艦内では握り飯と漬物という簡易な食事を好み、厳しい軍務を一般身分出身の同様以上にこなしているように、極めて丈夫で頑強な体力が伺わせる一方、軍令部総長としての職責に関しては、参謀総長であった閑院宮載仁親王と比して評価が分かれている。
海軍元帥・軍令部総長の地位の時に終戦を迎え、伏見宮家がGHQによる臣籍降下直前の1946年8月16日に死去。嫡男が早世していたため、嫡孫の伏見宮博明王が伏見宮家の最後の当主となることになった。

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