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豊臣秀勝

(一般)
とよとみひでかつ

安土桃山時代の武将。
豊臣秀吉の姉である日秀の子で秀吉の甥にあたり、養子に迎えられる。兄に豊臣秀次、弟に豊臣秀保。幼名は木下小吉、元服後は羽柴秀勝→豊臣秀勝と名乗る。
妻は織田信長の姪で浅井長政の子で淀殿(茶々)の妹である江(小督)。江は秀勝の死後徳川秀忠と再婚したため、二人の間に生まれていた娘・完子は淀殿に養育され、後に公家の九条幸家に嫁いだ*1

経歴

秀吉の九州征伐や小田原征伐に従軍し軍功をあげる。天正13年(1585年)、病死した羽柴秀勝(信長の四男)の遺跡を相続し、丹波亀山19万石の城主(19万石のうち9万石が蔵入地と思われるので実質10万石)となる。
天正15年(1587年)、九州征伐に従軍したが、戦後の論功行賞で知行の不足を訴えたため、秀吉の怒りをかって所領を没収された。天正17(1589年)、秀吉に罪を許されて蜂屋頼隆の遺領5万石を引き継ぎ、越前敦賀城主となったといわれているが、同年に秀吉は敦賀城を大谷吉継に与えているため、その直後に一柳直末の美濃軽海西城転封後に秀勝が美濃大垣城主になったことと混同しているとみられている。

天正18年(1590年)、小田原の役に従軍し、その戦功によって7月には関東に転封された徳川家康の備えとして甲斐・南信濃1ヶ国半を与えられ、甲斐府中に移る。短期間であるため甲斐・南信濃支配の史料は少ないが、郡内地方や河内における検地の実施を試みており、寺社への寺領安堵や禁制、諸役免除なども行っている。
天正19年(1591年)3月には美濃国岐阜への転封となり(前城主池田輝政は三河吉田に転封)、甲斐は加藤光泰に与えられている。文禄元年(1592年)、従四位下参議に任じられ、「岐阜宰相」と呼ばれる。(なお石高の詳細については不明であるが、文禄の役に8000名を動員しているため、当時の石高は約32万石と推計される。)
文禄の役には8000の兵を率いて、細川忠興とともに九番隊の大将として出陣するが、1592年10月14日に巨済島にて数え24歳で夭折する。秀吉の正室高台院(北政所)の甥豊臣秀俊(小早川秀秋)が名跡を相続したが、直後に秀俊が小早川隆景の養子になったため断絶した。
領地については、遺領の岐阜城には織田信長の嫡孫の織田秀信が入り13万石。残りの約19万石については、御家来衆や外部の大名の転封での立藩や、蔵入地に編入されるなど細かく分割されてしまった。

*1:完子と九条幸家との間に何人かの子がおり、この子たちが豊臣家の血を引いたことになる。そのため、幸家の家系が豊臣宗家滅亡後で豊臣嫡流の血筋に近いことになる。この子たちは浅野家に嫁いでおり、浅野家にも豊臣の血が流れている。また上記の理由により、現在の皇室は織田氏、浅井氏、豊臣氏の血を受け継いでいる。
豊臣秀勝&浅井江(小督)━豊臣完子━九条道房━九条待姫━九条輔実━九条幸教━二条宗基━二条治孝━九条尚忠━九条道孝━貞明皇后━昭和天皇━今上天皇

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