1884年〜1966年 中国大陸で活躍した大アジア主義者。
明治天皇の隠し子とも噂されたが、戸籍上は井上馨の兄・重倉の五男。
生後まもなく福岡の堀川家に預けられ、頭山満や井上馨の庇護を受けて育つが、問題行動を起こし、あちこちの学校をたらい回しにされる。
1899年、頭山の依頼で孫文に托されて中国に渡り、以後、1912年まで孫文と生死を共にして中国革命の成功に尽力。
その後、奉天の世界紅卍字会(戦前の中国で赤十字的活動をしていた会)の会長に推され、日本の軍閥と争った。帰国後、国粋会総裁に就任。反軍閥運動のため東條内閣と対立したため、ふたたび中国に渡った。
終戦と共に帰国。国粋会総裁という経歴が災いして戦犯容疑でGHQに逮捕されたが、無罪放免となった。
戦後は世界連邦運動を推進。