1995年12月7日初版発行 道誉は柏原城西に本陣を構えた。六波羅探題は京を捨て、仲時は近江に逃げ込んだ。大覚寺統の後醍醐帝は伯耆船上山にあった。二股をかけていた高氏は名越高家が赤松勢に討たれた時に肚を決めた。道誉は太平寺に行った。そこには光厳帝ほか、後伏見、花園の両院も神器もあった。高氏は六波羅に本陣を置き、道誉は仮の館で弟の直義にも会った。高氏は直義に道誉の館に赴き、神器を御所へ移せと命じた。関東では新田義貞が兵を挙げた。京は騒然となっていた。鎌倉が落ち、幕府も崩れ始めると早かった。信貴山から動かない大塔宮は征夷大将軍を望んでいた。高氏は帝より尊の字を与えられ、尊氏となっていた。道誉の仕事…