戦国武将。 天文9年(1540年)、生まれ。 文禄4年3月17日(1595年4月26日)、死去。
木曽義仲の子孫を自称し、信濃国木曾谷を領地とした木曽家の当主。武田信玄の娘を娶っていたが、天目山の戦いの直前に織田信長の軍門に下ったため離縁されている。本能寺の変後は徳川家康と豊臣秀吉の間を渡り歩き、最終的に家康の関東移封に従って上総に移った。
なお、息子木曽義利の代に大名・木曽氏は改易されている。
去月廿一日之書状、今月四日加披見候、随而家康於無上洛者、三川*1境目ニ為用心殿下*2被成御動座、北国衆*3其外江州*4何も宰相*5ニ相添、関東*6江可差遣旨相定候之処ニ、家康上洛候て令入魂*7、①何様にも関白殿次第与申候間、別而②不残親疎、関東之儀家康と令相談、諸事相任之由被仰出候*8間、被得其意、可心易候、真田*9・小笠原*10・木曽*11両三人儀も、先度其方上洛之刻*12如申合候、徳川所*13へ可返置由被仰候、然者真田儀可討果ニ相定候といへとも、其方日比*14申談られ候間、真田を立置*15、③知行不相違様ニ被仰定、家康ニ可召出之由被仰聞候、真田儀条〻不届段先度被仰越候時、雖被仰聞候其方為候…