我があれば死もある。 この事実にはっきりと気づくことが仏教の入り口だ。 大多数の人々は口先で「そんなこと当然だ」と言う。しかも我と死が両立できないことにも無意識だが気づいている。 それなのに次の自然な一歩 「ということは…我というのはなんかへんだぞ」 とは夢にもおもえない。 おもえないのは、死の事実を受容したふりで不正直にごまかしているからだ。 本心は口先と反対に「我がある。だから死はありえない」と、初めから破綻した考えに凝り固まっている。死の否定できないことは自明だからだ。 大多数の人々は、我そのものを疑うという逆転の発想ができないために追い詰められた結果、背に腹はかえられぬ切実が事実も道理…