哲学用語の一つ。
古代ギリシャの哲人たち ある問いの答えを得る思考の際に、例えば ” Aだから とか Aの原因に寄り とか Aなる経験に基づき Bである。 ” というような判断を行う「以前に持っている論理の性格」を意味する。簡単には、自明性とでもいうべきか。
エマニエル・カント ある認識を得る時に、人間に自ずと備わっているカテゴリー(範疇)のような先天的で、その規定の明確に区別されたもの。
ラテン語は、a priori.
諸言 純粋認識と経験的認識との区別について 我々の認識は全て経験から始まる。対象が我々の感覚を触発して、表象を作り出し、我々の悟性(我々自身が持っている認識能力)がこれらの表象を比較し、結合し分離する。すなわち感覚的印象という材料に手を加えて対象の認識にする、この認識が経験である。我々の認識が経験をもって始まっても、我々の認識が必ずしも全て経験から始まるわけではない。(経験は、対象から触発された感覚的印象に悟性が自分自身のうちから取り出した悟性概念を付け加えた合成物だから) 経験に関わりのない認識、また一切の感覚的印象にすら関わりない認識をア・プリオリ(先天的)な認識という。それと区別して経験…
ジョン・リット・ペニマン「悪魔に誘惑されるキリスト」。ウィキメディア・コモンズより。 名作「黒猫」の姉妹編とも言うべき短編。併せて読まれることをお薦めします。原文はこちら。 人心の原動力とも言うべき心の動きについて考える時、見逃すことのできないある根源的(ラジカル)で、原始的(プリミティヴ)で、約分不可能(イレデューシブル)な感情が存在する。だが近代の似非脳科学者(フレノロジスト)たちは、従来の心理学者(モラリスト)たちと同様、これを一つの心理傾向として認めていない。純然たる知的思い上がりから、われわれはこれをまったく看過してきたのだ。われわれがその存在を暗黙のうちに見過ごしてきたのは、もっぱ…
少し前にカール・ポパーの『科学的発見の論理』を読んでいて、その中で、ポパーが確率論に基づく帰納法について長々と批判をしている部分など、いまいち文脈が理解できていない部分があったのですが、野家啓一の『科学哲学への招待』の第9章「論理実証主義と統一科学」、第10章「批判的合理主義と反証可能性」のあたりを読んだおかげで、ポパーは、論理実証主義の完成形である「仮説演繹法」の中の帰納法の部分に対して 仮説を発見・提起する部分では、観察から帰納法的な手順を踏んで導かれる仮説って小粒なものばかりにならない?むしろ自在にジャンプした発想に基づく仮説の方が面白いのでは? 仮説を正当化・立証する部分では、「検証可…
本書(参考1)はウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解できた内容に文章を崩している。本記事は13章の註に関する。 以下、本文抜粋。 P224 【1.論理空間・無限・規則のパラドクス】 論理空間は言語的なものではなく、また論理空間は無限の可能性があるというのも間違いである。 規則のパラドクスは『論理哲学論考』の精神的な確信部分を破壊する。『論理哲学論考』におけるウィトゲンシュタインの根本的な問いは「世界にア・プリオリな秩序は存在するか、存在するならそれは何か」である。 『論理哲学論考』でウィトゲンシュタインは論理こそ…
「映画と新しい心理学」*1『意味と無意味』所収。 古典的な心理学はわれわれの視界を諸感覚のモザイクの総和(mosaïque)として考える。そこでは、各々[の感覚]は、それに対応する網膜の局地的な刺戟に厳密に従属していることになっている。新しい心理学がまず明るみに出すのは、最も単純で最も直接的なわれわれの感覚を考察するときでさえ、感覚とそれらを条件づけている神経現象のこの平行状態を認めることはできない、ということである。われわれの網膜は均質というには程遠いのである。それらの部分のいくつかにおいて、その網膜は例えば、青や赤に対して盲目であり、にもかかわらず、私は青や赤の表面が見えるとき、脱色された…
はろー、はろー、はろー。 ソクラテスは主として禁止する形で内面に現れる啓示を神霊《ダイモニオン》と呼びました。 時代は飛んで、カントは道徳的な義務や抑制を"理性"の属性の1つとして定義し、『実践理性批判』では、みんなの理性はア・プリオリ(生まれたときから)にあるものだから、共同体に合わせてしっかり制御していこうねということを語りました。これは、ソクラテスのダイモニオンを普遍的なもの(というより民主主義的に決定されるものという方が近いかもしれません。)へとカントが昇華したものではないでしょうか。 そんな話はさておき私のダイモニちゃんは非常に強力で、主にアウトドアでその力を発揮してきます。 象徴的…
目次 はじめに フランス語原文 フランス語文法事項 直訳 河野訳 伊藤訳 南條訳 各訳の主な相違点 総評 附記 発見の文脈と正当化の文脈 はじめに 最近、相次いで Henri Poincaré の『科学と仮説』の邦訳が出版されました。次の二つがそれです。 ・ ポアンカレ 『科学と仮説』、伊藤邦武訳、岩波文庫、岩波書店、2021年 *1 、 ・ ポアンカレ 『科学と仮説』、南條郁子訳、ちくま学芸文庫、筑摩書店、2022年 *2 。 この『科学と仮説』には以前からよく読まれてきた次の文庫本もありました。 ・ ポアンカレ 『科学と仮説』、河野伊三郎訳、岩波文庫、岩波書店、改版、1959年 *3 。 …
イマヌエル・カント 哲学哲学者教授 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 イマヌエル・カントImmanuel Kant イマヌエル・カントの肖像 生誕 1724年4月22日 プロイセン王国・ケーニヒスベルク 死没 1804年2月12日(79歳没) プロイセン王国・ケーニヒスベルク 時代 18世紀の哲学、19世紀の哲学 地域 西洋哲学 学派 カント主義Kantianismus、啓蒙思想(啓蒙時代の哲学) 研究分野 認識論、形而上学、倫理学、宇宙進化論 主な概念 超越論的観念論(超越論哲学)、物自体、批判哲学、アプリオリ、ヌーメノン、「あえて賢明であれ」、定言命法、仮言命…
本書(参考1)はウィトゲンシュタインの研究者である野矢茂樹氏の著書だ。難しいので抜粋とメモを残しながら読みたい。抜粋といっても私の理解の範囲で文章を変えている。本記事は11章に関する。 以下、本文抜粋。 P182 前章までの議論は思考可能な範囲を目一杯使ってきた。しかし我々は論理的可能性の一部分しか思考可能ではない。 例えばグルーのように、グッドマンが提唱しなければ思いつきもしなかった可能性さえ論理空間には含まれている。隕石が落ちてくる可能性や一万円札が財布の中でひとりでに二枚に増える可能性は、論理的可能性には違いないが、我々の行動はそれを前提にして成り立つことはない。 私の行動に影響を与える…
はてなブログでmermaidの図を描く Githubでもサポートされたmermaidをはてなブログでも描けないか試したところ多少なんとかなったのでメモ。 ```mermaid graph TB H["Hatenaで"] M["mermaid"] H-->M ``` 👇上のmarkdownコードがこうなる graph TB H["Hatenaで"] M["mermaid"] H-->M はてなブログでmermaidの図を描く mermaidって何? サポートしてる図 記事に埋め込むコード 注意点 Example 参考リンク mermaid.initialize({startOnLoad: tru…
死刑の判決が下されたのち、『弁明』のソクラテスは、これからアテナイで起こるであろう出来事について、一つの「予言」をすると言い始める。少し長くなってしまうが、その箇所を引用しつつ、検討してみることとしたい。 「諸君よ、諸君はわたしの死を決定したが、そのわたしの死後、間もなく諸君に懲罰が下されるだろう。それは諸君がわたしを死刑にしたのよりも、ゼウスに誓って、もっとずっとつらい刑罰となるだろう。なぜなら、いま諸君がこういうことをしたのは、生活の吟味を受けることから、解放されたいと思ったからだろう。しかし、実際の結果は、わたしの主張を言わせてもらえば、多くはその反対となるだろう。諸君を吟味にかける人間…
【研究発表のお知らせ】 「ドゥルーズ=ガタリの歴史とパブリック・ヒストリーへの問い:出来事、アジャンスマン、生成の視点から」(F.アツミ/Art-Phil) 「歴史は諸生成の共存を継起へと翻訳しているだけだ」「歴史を作るのは、歴史に抗う者だけだ(歴史に同化する者、歴史を修正する者によって歴史が作られることはない)」とドゥルーズ=ガタリは『千のプラトー』において語る。あるいは、ドゥルーズは『フーコー』での記述において「ア・プリオリなものは歴史的なものである」と言明する。歴史はその非歴史的な契機にあって、どのように未来とともに見出されうるのだろうか? 公共空間における/に対する歴史を扱うパブリック…
若い読者のための哲学史 【イェール大学出版局 リトル・ヒストリー】 作者:ナイジェル・ウォーバートン すばる舎 Amazon 1 質問し続けた男ソクラテスを賢人たらしめたのは、問いを続け、つねに自分の考えについて議論を交わしたことである。プラトンのイデア(概念)論 2 真の幸福プラトンの弟子アリストテレス。「ツバメは一羽では夏にならぬ」一羽のツバメの飛来だけでは夏が来たことは証明できないように、嬉しいことをいくつか積み重ねたも真の幸福は得られない。 3 わたしたちは何も知らないピュロンの懐疑論 4 エピクロスの園エピクロス「エピキュリアン(快楽主義者)」の語源となったエピクロス派の開祖。快楽と…
カントの著作は難解な感じがして未読だったのだが、どのような事が書かれているのか?とりあえず解った感じがする。西研さんの解説は解り易かった。カントが言っている事は《良知》のようなものなのかな?と思ったりした。本能や感情、欲望の通りに行動する事は、自由では無く、それらに拘束されているのでは?と前から思っていたが、この番組を観て自分の中で整理された感じがする。カントの著作を読む入り口になる感じがしている。 メモ U-NEXTの「NHKまるごと見放題パック」で視聴(月額 990円 ポイント利用) 西研さん 第1回 「近代哲学の二大難問」 「純粋理性」はカントの造語で人間に元々備わっている認識の力 人間…
カント『プロレゴメナ』岩波文庫を読む。 立花隆氏が『純粋理性批判』よりこちらを読むべし、ということで読むことにした。 今日は「分析的判断」と「総合的判断」の違いを理解した。 分析的判断はア・プリオリ(先天的)のみによって判定する判断を指し、総合的判断とはそこから拡張されたものに関する判断であると理解した。 たとえば「1+1は2である」は分析的判断、「サイコロを2つ振って同じ目が揃う確率は1/6である」といった命題は先天的な判断から拡張されたものであるので「総合的判断」とカントは呼ぶことを理解した。 また、批判という行為は「仕上げられた理性」によって行わねば意味がない、という言葉から、カントとい…