サミュエル・ベケットが必須知識だった時代があった。社会革命を唱える政治的前衛よりは、芸術的前衛のほうに興味がある青年たちのあいだでである。 文学・演劇における二十世紀とはいかなる時代だったかというような、芸術史的思索をめぐらせようとすれば、今もって欠かせぬ作家であり続けていよう。が、そこに表現された世界は、とある極端化された思考実験のごとき世界であって、本質的ではあっても具体的ではない。究極的ではあっても日常的ではない。観念上の真実をどこまでも信用し続ける態度(信仰?)なしには、興味をつないでゆけぬ世界だ。 言語の問題も関係する。フランス語と英語で書いた作家だ。アイルランド人というから英語を母…