モーツァルトの歌劇。K.366 正式には「クレタの王イドメネオ、またはイリアとイダマンテ」 3幕32曲、オペラ・セリア。 トロヤ戦争からの帰還の途中、船が沈み、「助けてくれたら生贄としてクレタ で会った最初の人間を海神に捧げる」と約束し、王イドメネオは命を救われる。 しかし、クレタで最初に会った人間は愛する息子イダマンテであった……。
フランス人権宣言(ジャン=ジャック・フランソワ・ル・バルビエ画) 人類が到達した、偉大なる宣言 1789年7月14日。 パリ市民が、絶対王政の圧政の象徴であったバスティーユ監獄を陥落させ、フランス革命の火ぶたが切って落とされました。 7月14日は、フランス共和国の建国記念日であり、「パリ祭」として今でも祝われています。 ただ、バスティーユ襲撃は、まだ法的な意義、評価がされない間は単なる反乱、暴動であり、パリの争乱はフランス各地に広がってゆきました。 地方の農民や都市民が在地の第一、第二身分を襲うという、無秩序なパニック状態となってしまいました。 「大恐怖」といわれています。 立憲国民議会はこの…
「首飾り事件」の首飾りのデザイン画 「首飾り事件」の発覚 1785年夏、王妃マリー・アントワネットは、ボーマルシェ作の喜劇『セビリアの理髪師』を、プチ・トリアノン宮殿の自分専用の劇場で、自ら上演するのに夢中になっていました。 ベルタン嬢にコスチュームを作らせ、コメディ・フランセーズの演出家を呼んで、演技指導を受け、稽古に励んでいました。 ところがある日、首席侍女のカンパン夫人が稽古に遅刻してきました。 どうしたの、と問うと、トラブル発生です、という報告。 出入りのユダヤ人宝石商人ベーマーがやって来て、『王妃が分割払いで購入した非常に高価なダイヤモンドの首飾りの支払いがないので、このままでは破産…
『セビリアの理髪師』の一場面 「フィガロ三部作」の第一作 1772年、ボーマルシェは、かつて妹の名誉を救うために滞在し、元婚約者と裁判で闘った地、スペインでの体験をもとに、オペラ・コミック『セビリアの理髪師 または無益の用心』を書きました。 これがイタリア劇団から上演を断られたあと、喜劇として作り直し、コメディ・フランセーズに持ち込みました。 いったん上演が決まったものの、ボーマルシェはショーヌ公爵やグズマン判事との係争を抱え、当局からトラブルメーカーと目されて上演は禁止。 その後、王の密使としての仕事が忙しく、この作品は放っておかれましたが、1775年にようやく初演ができました。 なかなか上…
ヨークタウンの戦いでフランス軍(左)、アメリカ軍(右)に降伏する英国コーンウォリス将軍 風雲急を告げる新大陸 王や王妃のスキャンダル暴露防止のため、王の密使となって度々英国に乗り込んで活動したボーマルシェ。 彼が次にのめり込んだのは、なんとアメリカ独立の支援でした。 『セビリアの理髪師』『フィガロの結婚』の作者が、ここまで歴史に食い込んでいたとはあまり知られていないでしょう。 当時、フランスは七年戦争で英国に負け、特にアメリカ新大陸の植民地をかなり英国に奪われてしまいました。 また、ドーバー海峡に面したフランス領、ダンケルク要塞の破却も、パリ講和条約で決められ、さらに英国監視官の常駐まで認めさ…
ボーマルシェ 国王最後の愛人のスキャンダル グズマン判事と自分との裁判について、そのいきさつや経過を逐一出版して、世論を味方につけたボーマルシェ。 結果、パリ高等法院で勝訴を勝ち取ります。 そして一躍、ジャーナリストのような有名人となります。 そんなボーマルシェに、なんと国王ルイ15世から密命が下ります。 王は、出版という危険な手段で世論を操作するボーマルシェに危険を感じていましたが、逆にその力を利用しようと考えたのです。 すでに晩年となっていたルイ15世は、デュ・バリー夫人を最後の愛妾にしていましたが、ロンドンに亡命したモランドというフランス人が、ふたりのスキャンダルを書いた文書を出版する、…
息子ヴォルフガングの音楽の天才に気付いたレオポルトは、これを育み開花させることを神から与えられた自分の使命と考え、早くからその実践に取り掛かりました。 音楽そのものはもちろん、音楽家として世を渡っていくのに必要な一般教養についても、幼いヴォルフガングに自ら教育を施したのです。 しかし、ヴォルフガングの才能を十全に伸ばし、そこから豊潤な果実を摘み取るには、彼らの住んでいたザルツブルクは小さすぎました。 そこでレオポルトは、ヨーロッパの王侯貴族や音楽の大家、さらには一般民衆に息子の楽才を披露し、彼らの評価と後援、さらには名声や金銭、地位を得ようと、ヴォルフガングを(時には姉のナンネルも)連れて、当…