アメリカの社会学者ハロルド・ガーフィンケル(1917-)が、自らの研究方法を呼ぶために作った造語。文字通りには「人々の-方法論 (ethno-methodology) 」を意味する。
ガーフィンケルが陪審員研究に従事していたときに、陪審員たちが、まさしく陪審員として判断を行うという課題を、独自の方法論をもって遂行していることに注目したことから名づけられたと言われている。したがって、エスノメソドロジーとは、まずもって社会成員によって用いられている方法論そのもののことであり、と同時に、その方法論についての研究の名前でもある。
かのタルコット・パーソンズの門下生であったガーフィンケルは、パーソンズが「社会学の根本問題」と呼んだ「秩序問題」、すなわち「社会秩序はいかにして可能か」という問いに取り組んでいた。当初ガーフィンケルは、アルフレート・シュッツのアイディアにヒントを得ながら、この問いにパーソンズとは異なった解答を与えようと試みていたが、やがて会話分析の創始者ハーヴィ・サックスらと共同研究をするなかで、この問いを、社会学者が解答を与えるべき問題ではなくむしろ、社会成員たち自身にとっての課題として捉えるようになる。
「秩序問題」はある意味で奇妙な問いである。なぜなら、社会学者があれこれ考える前に、社会秩序は社会生活を営む成員たちによってすでに成立しているからだ。既に成立しているものに対して「いかにして」と問うとき、そこには「成立しそうもないものが成立している」という驚きの感覚があるだろう。こうした感覚は、例えば「行為の本当の意図は行為者自身にしかわからない」という前提のもとで、にもかかわらず相手の行為の意味がわかるのはなぜか、と問うことなどによって生じてくるにちがいない。けれど、社会秩序が既に成立しているものなのであれば、そうした問いを立ててみることとは別に、現に成立しているその秩序のありかた、すなわち社会成員が日々の生活を営んでいる方法(論)そのものを記述してみること、このことがまず試みられてよいはずだ。こうしてエスノメソドロジーが生まれ、以後ガーフィンケルとその同僚や教え子たちは、実際にその課題に取り組んでいくことになった。そこでは、さまざまな「人々の方法論」が記述されると同時に、「秩序問題」を成立させていたさまざまな前提(上の例でいえば「行為の本当の意図は行為者自身にしかわからない」という前提)のほうが、むしろ誤りであったことが指摘されていくことになる。
現在でも、社会学はさまざまな社会現象に説明や解釈を与えること、すなわちある現象の原因をさぐったり、それを分類したりすることでそれを「よくわかる」ものにしていくことを、主な仕事にしている。ここには、社会現象はそれだけではよくわからないものであり、社会学者が分析することでより「わかる」ものになるはずだ、という構えがある。
それに対して、エスノメソドロジーの行うことは、ある社会現象が、ほかならぬその社会現象であると理解されているということそのものを記述しようとすることである。たとえば、自殺率の増減をなんらかの社会的要因によって説明することはできよう。だが、そもそもそれが可能であるためには、多様な「人の死」のうち、どれが「自殺」であるかがあらかじめわかっていなくてはならない。でなければ、そもそも自殺の数を数えることもできまい。言うまでもなく、ある死が自殺であるかどうかは不明なことは多々ある。それでもその死を論じ扱う人々は、さまざまな推測をしながら、その死について判断を加えている。つまり、そこには、自殺とその他の死をわかつための、人々の方法論(基準)がある。社会学者もそれを前提にして初めて、自殺率の分析ができているのである。
もちろんそうした方法論(基準)はしばしば曖昧で、一義的な結論を導くものではないこともあるだろう。だから、社会学者はそれに厳密な定義を与えるべきだ、と考えることもできる。実際多くの社会学研究は通常そうするのである。だが、たとえ曖昧であっても、人々の活動は出鱈目になされているわけではない。そこにはそれなりの合理性・理解可能性がある(場合によっては「曖昧にしておく」ことだってひとつの合理的な活動である)。そのように営まれている社会現象を、社会学者による厳密な定義によって置き換えることは、その現象にもともと備わっていた理解可能性を、記述の対象から除外することになる。
こうした通常の社会学研究のなかでは、ある社会現象そのものの理解可能性も、そしてまたそれをつくりあげている社会成員の組織だった(方法論的な)活動も、研究の前提のままになっていて、記述の対象となることはない。それを丁寧に記述してゆこうというのが、エスノメソドロジーの試みである。
エスノメソドロジー研究においては 対象も用いられる手法もさまざまであって、特にこれでなければならないという決まりはない。ひろく用いられているのは「会話分析」という手法で、日常場面から医療、法廷、教育、企業オフィスなど、様々な場面において、会話をとおして成立しているさまざまな社会現象を録音録画し、会話のみならずジェスチャーなどの身体の動きも含めた詳細な分析がおこなわれている。
もちろん、すべての社会現象が会話をとおして成立しているわけではないし、すべての場合で録音録画が可能であるわけでもない。フィールドワークによる記録や聞き取り、新聞や雑誌記事の分析、テレビ番組の分析などをとおして、ある現象がどのように理解可能なものとして成立しているかを明らかにするさまざまな試みがなさている。また、そうした場合の分析手法をどのように彫琢していくかということも、現在進行中の課題である。
いずれにしても重要なのは、ある現象がまさに起こっているその現場へと接近し、社会成員がその現象を組織だったしかたでつくりあげている、そのやりかたを記述することである。私たちはつねに社会秩序のなかにいるのだから、特別な場所にいかなくても、いまここにある社会秩序の研究から始めることもできる。実際、「会話分析」は、ありふれた日常会話が、それ自身の権利において、精巧な社会秩序を備えた立派な研究対象であることを示すところから始まったものだった。
ただし、人々のおこなっていることを記述しようとするかぎり、社会学者も、ひとりの社会成員として、最低限そこでおこなわれていることが何であるのかを「わかる」ための能力を持っていなくてはならない。日本語がまったく理解できない人には日本語の会話分析はできないし、法学的知識のまったくない人には裁判場面の分析はできないだろう。社会秩序が成立しているその場面へと接近するには、社会学者のほうも、不器用にであれその秩序に参加することができなくてはならない。
逆に言えば、社会学者が「しろうと」として参入していけるどんな場面においても・どんな現象についても、エスノメソドロジー研究は そこですぐに開始できるのである。