(オランダ語 : Vereenigde Oostindische Compagnie、略称VOC) 1602年3月20日にオランダで設立され、世界初の株式会社といわれる。会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられ、アジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いた。資本金約650万ギルダー、本社はアムステルダムに設置され、重役会は17人会(Heeren XVII)と呼ばれた。18世紀末に政府により解散させられた。
ピンホール現象を応用して投影像を得る装置。17世紀初頭、オランダ人によって携帯型のカメラ・オブスクラが発明され、市販されるようになった。江戸初期の日本にも移入されており、日本ではオランダ語の音写として「トンクルカームル」、あるいは日本語訳して暗室鏡、暗室写真機、写真鏡と呼ばれた。 ピンホール現象と「暗い部屋」 レンズ付きカメラ・オブスクラの誕生 部屋型カメラ・オブスクラの普及 携帯型カメラ・オブスクラの登場 日本に移入されたカメラ・オブスクラ 参考文献 ピンホール現象と「暗い部屋」 小さな一つの孔を除き光の入らない暗い部屋で外が十分明るいとき、その小孔から差し込む光が反対側の壁に外の風景を映し…
インドネシア訪問中の天皇皇后両陛下は、2023年6月19日、ボゴール宮殿での歓迎行事の後、ジョコ大統領自ら運転するカートで隣接する植物園を巡られた、と報じられた。 ボゴール宮殿は、ジャカルタから60kmほど南のボゴール市にある大統領離宮だ。 オランダ植民地(オランダ領東インド)時代の18世紀から19世紀にかけて建設改修が行われた植民地総督の別荘だった。 ボゴール宮殿 オランダに代わって一時的に大英帝国の植民地となった1811~1816年の間は、シンガポール建設で有名なトマス・スタンフォード・ラッフルズ総督も、バタヴィア(現、ジャカルタ)の猛暑から逃れて冷涼な宮殿によく滞在した。 彼は、宮殿に連…
巨大なプリカット湖(潟)と海を隔てるシュリーハコータ島の南端部に形成された港町。14世紀頃から多くの商船が集まる商業都市として繁栄した。17世紀にはオランダ東インド会社の商館が置かれ、コロマンデル地方における同社の中心拠点となった。 ヴィジャヤナガル王国の港 刻文史料にみる繁栄 オランダの進出 ヘルドリア要塞 濠址出土の陶磁片 南インドの争乱 参考文献 ヴィジャヤナガル王国の港 プリカットは、ヴィジャヤナガル王国のデーヴァラーヤ2世の時代(1422ー46)に、この地方を治めたアーナンダラーヤという人物の下で発展。彼の名にちなんでアナンタラヤン・パッティナムと呼ばれていた。 またタミル語名でパラ…
インド東岸のコロマンデル海岸の港市の一つ。綿布などの輸出港として周辺の商品生産地と連携しながら栄えた。17世紀以降、オランダ人などヨーロッパ勢力が進出した。 聖地ティルカリュクンドラム 様々な地域の商人たちが住む ヨーロッパ勢力の進出 参考文献 聖地ティルカリュクンドラム サドラスから10キロほど離れた場所に位置するヒンドゥー教の聖地ティルカリュクンドラムのシヴァ寺院には、サドラスに言及する14世紀末から15世紀初頭にかけての刻文が残っている。 その一つに、ヴィジャヤナガル王国の皇太子カンパナがこの地を統治していた1374年(応安七年)の刻文がある。この刻文は、ティルカリュクンドラムに住む「カ…
本作は2020年発表の作者の2作目のミステリーだそうですが、1634年バタヴィア(ジャカルタ)からアムステルダムに向かうオランダ東インド会社の帆船ザーンダム号が主な舞台。 主人公は一応、名探偵サミュエル(サミー)・ピップスの助手兼ボディーガードかつ友人のアレント・ヘイズという事になるんでしょう。 あいまいな言い方をするのは、普通に言うミステリーとはちょっと違うところがあるから。 一応探偵としたけれど、この時代は捕り物士と呼ばれているという設定で、サミーはその呼称を嫌って謎解き人と自称している。 大男で武張ったアレントと小柄で美男子のサミーは熊と雀とあだ名されているが、その外見や役割に反して二人…
中学高校の社会科でいろいろ習いましたが、そこで習った事物などについて、英語でなんて言うんだろうと思ったことありませんか? そんな、社会科で出てくる英語をまとめてみました。 「英語で社会科〜世界史(5)〜」はこちらをごらんください。 Contents ヨーロッパ フランス 中東 オスマン帝国 インド 東南アジア アメリカ 参考 ヨーロッパ フランス 18世紀ごろのブルボン朝 (the Bourbon Dynasty) のフランスは、聖職者などの第一身分 (First Estate)、貴族の第二身分 (Second Estate)、平民の第三身分 (Third Estate) に大きく分けられる旧…
築地本願寺などの設計で知られる建築家伊藤忠太が、青年時代に海外留学した中でも特に当時のオスマン帝国での活動を描いた本。 著者のジラルデッリ青木美由紀は、日本出身のトルコ美術史家。現在はイスタンブール工科大学建築学部の准教授補。 明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく 作者:ジラルデッリ青木美由紀 ウェッジ Amazon 自分は、まだ往来が盛んでない時代に海外へ単身乗り込んでいったような人物の話が好きで、例えば、17世紀、ギリシャ出身でありながらタイ・アユタヤ王朝の政府高官へ上り詰めたコンスタンティン・フォールコンとか、やはり17世紀の長崎・平戸で日本人女性とオランダ東インド会社社員の間に生…
文字霊日記・3574日目 判例・凡例・範例・范蠡・反例范(ハン)=艹+氵+㔾いがた・かた・のり蜂かた・鋳型・鋳造の型法則・規範 インターネットでの 翻訳「漢字辞典」検索での結果のボクの理解度では・・・ 「漢文語 ≠ 日本語」・・・「日本語」になっていないみたい・・・ 「英 語≒日本語」・・・「日本語」になっている・・・? ↓↑ 「円満=圓満⇔㘣」なカンジ?・・・ 「圓=㘣」を調べてみた ↓↑ 㘣=囗+肙・・・圓(エン)=囗+員=円 囗+口+月 ケン・セン・ゼン 規則・規制 从(從)囗,肙(エン)聲 従がう=随う・遵う・順う・从 圓規 《說文解字.囗部》:規也 《古文苑.卷一七.蔡邕篆勢》 :摛…
日本とドイツの架け橋となった人物 Wikipediaより 皆さん、こんにちは! 今回はシーボルトに関する雑学をご紹介します! フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796年 - 1866年)は、ドイツ出身の医師であり、19世紀の日本に滞在して西洋医学の発展や学術分野に大きな貢献をしました。 彼は長崎の出島で西洋医学を伝え、日本の自然科学、医学、文化を西洋に紹介した功績で知られています。 シーボルトの生涯と日本滞在 シーボルトは1796年、ドイツ南部のバイエルンで生まれ、医学を学びました。 オランダ東インド会社の医師として1823年に来日し、長崎の出島で医師として活動しました。 日本は当時…
17世紀の世界の海を舞台にスペイン、フランス、オランダ、イギリスによる海洋覇権を巡る争いを描いた「WHEN LIONS SAILED」(S&T)を4人対戦しました。本作は2011年発刊のS&T誌の付録ということなので10年以上前の雑誌ゲームですが、周囲ではいまだにプレイされている作品です。今回初めてプレイさせてもらいました。雑誌ゲームにありがちな荒削りな部分はありましたが、ゲームとしての切り取りがうまく、十分に楽しめました。 デザイナーはMirandaです。 ゲームの背景 ゲームシステム 登場国・ユニット マップ 「財宝船団」 シーケンス 移動 戦闘 勝利条件 初期配置 第1ターン 第2ターン…
ルヌガンガとブリーフガーデンという、バワに縁がある庭園2つを巡って、造園やアート作品の美意識に脳を灼かれたままぼんやりしていたら、車はゴールに到着。 ゴールは昔からの港町。Wikipediaによると『古代から良く知られていた港であり、ペルシア人、アラブ人、ギリシャ人、ローマ人、マレー人にインド人、それに中国人といった多くの国々の商人がこの地を訪れていた。』とあります。中国の明代には鄭和による大航海の歳に来訪した記録も残されています。 その後、ヨーロッパの大航海時代以降はポルトガル、オランダ、イギリスの植民地となりました。そのため、ヨーロッパ建築による要塞都市としての姿へ変わっていくこととなりま…
2024年10月11日 投稿 第三部 第二章 産業資本 4.産業資本主義の起源 マルクスは、封建的生産様式から資本主義的生産様式への移行において、「二つの道」があった、と言っている。それは、生産者がマニュファクチャーを組織する場合と、商人資本がマニュファクチャーを組織する場合である。どの国にも、この二つは存在するが、イギリスでは、前者の道が優先した。フランスでも同様である。一方、ドイツと日本では、後者の道が優越した。大塚久雄によれば、オランダの資本主義は、商人資本的であり、奢侈品を中心とする中継貿易にもとづいていた。それに対して、イギリスでは「下からのマニュファクチャー」が進んだ。これは安価な…
コイン探求の旅、今回ご紹介するコインは『オランダ領東インド 2セント銅貨』です。 発行国 オランダ領東インド(インドネシア) 材質 カッパー 品位 ? 発行年 1836年 発行枚数 ? 鑑定会社 未鑑定 グレード FR~AG相当 サイズ このコインは、表面にはオランダの国章である剣を持った赤色の爪と舌を持つ金色のライオンが中央に描かれ、それを挟んで額面の2Cが刻まれています。裏面にはラテン語でオランダ、インド、年号の1836年が刻まれています。 オランダ領東インドとは、主にインドネシア周辺地域を指します。このコインが発行された1836年は、およそ以下の青い箇所が該当します。第二次世界大戦勃発時…
/);`ω´)<国家総動員報 : 石破茂「衆議院解散(秒読み段階」高市早苗「応援依頼殺到!(120か所超える」日本「反石破勢力の旗頭(重要」高市陣営「全国を飛び回り党内基盤固める(党員人気No1」→ 自民の反転アンチの憎しみを全て石破に集め媚中派議員と共に滅びるイシバレクイエムが発動中なのだと信じましょう。 先日来の体調不良ですが、実は手足口病だったことが発覚。子供もいないのにどこで拾って来たんだろう?で手足はともかく口の中がズタズタでまともにモノが食べられないんですが、色々試した結果、パスタだとかなり楽に食べられることが判明。これから口内炎出来た時の参考にしようッと。情報大名・朽木昌綱作者:…
2023年12月28日 インドネシア・ジャカルタジャカルタは一泊だけで次の街に向かいます。列車は午後発なのでそれまでジャカルタを街歩きします。何気なく歩く街並みが好きな光景で思わず歩きすぎてしまいます。とりあえず、独立記念塔がある広場まで 独立記念塔はモナスと呼ばれ、周辺には整備された芝生や木々が植えられており、ゆっくり寛げる空間が広がっていてジャカルタの人たちの憩いの場として親しまれています。新年に向けてたくさんのマーケットが出ています。 次にコタ地区へ向かいます。ツーリストバスの案内がありましたが、1時間待っても来ません。路線バスに変更して移動します。オランダ東インド会社の拠点となった旧市…
近世オランダの独立までは「オランダ独立戦争」についてのいくつかの記事で書いた。 ここでは、簡単なおさらいとその後の略史を書いていく。 経済急成長の理由 インド・アメリカ大陸との貿易 オランダ東インド会社 西インド会社 衰退の原因 中央集権化の失敗 英蘭戦争 経済急成長の理由 オランダはネーデルラントの北部にあるが、戦争前は南部(現在のベルギーあたり)の方が栄えていた。南部の中心都市アントウェルペン(アントワープ)は当時のヨーロッパ最大の商業都市だった。 しかしアントウェルペンが激戦地となって荒廃した上にカルヴァン派の人びとが北部に亡命してしまったため、最大都市は有力な亡命地のアムステルダムとな…
東南アジアには 16 世紀以降、ポルトガルやスペイン・オランダ・イギリスなどヨーロッパの勢力が進出し、東アジアからインド洋にかけての悔域でおこなわれたアジア域内貿易のち中継地として栄えた。 なかでもタイのアユタヤ朝は、国際貿易からの利益を財政的な基盤とする典型的な港市国家であった。 オランダ東インド会社はマルク(モルッカ)諸島の香辛料を独占的に入手したほか、日本などアジア各地に商館を設置し、アジア域内貿易から利益を得た。 また、スペインが拠点をおいたマニラはメキシコのアカプルコと大型帆船であるガレオン船によって結ばれ、銀の一部はマニラ経由で中国に流入した。 (山川出版社『歴史総合』p25より)…
も世界から落ちぶれた状況です」 ---------------------------------------------⁉️クエスト1↓日本は国土面積が狭い割に、異常に人口が多い状況が続いていましたね。過去を遡ると、大和政権誕生時から現在に至るまで、日本語話者人口は世界の中で5~7位を推移していたのではないでしょうか?この4000年間言語使用者しての1位は中国で間違いないと思います。2位は人口で言えばインドですが、言語が多様化しています。しかし、インド地域語としてくくればずっと2位ですね。3位以降は時代の趨勢で変わりますが、日本語は少なくとも紀元500年以降は5~7位レベルだったのではないで…
「おや、日本人の方ですか?」「はい。そうですが」「おお、日本人ですか!それはそうと、このツアーのことをどこで知ったのですか?」 シャオムとアンビは、ミュージアムの入り口で、見知らぬ日本人の壮年から声をかけられた。「はあ。いやあ、たまたま今ここに来たところなんです」「それはそれは。もしよければご一緒にどうですか?」 この壮年は、クアラルンプールにある国立の博物館、その名もミュージアム・ネガラで、日本語ガイドのボランティアをしている人物であった。温厚そうな人である。 シャオムとアンビは、この日、マレーシアの歴史を知るため、朝から、このミュージアム・ネガラを訪れたのであった。2人がチケットを買って入…
前回からの続き。 開戦と内部分裂 オランダの「独立」の実情 劣勢から巻き返して休戦へ 貿易大国としての隆盛 戦争の再開と終戦 開戦と内部分裂 1568年にオラニエ公ウィレムが戦闘を開始したことを持って独立戦争(八十年戦争)が始まるとされる。ただし、オラニエ公だけでなくスペイン本国も金銭不足で(四方で戦争してる)、開始から数年間は膠着状態であった。 戦況が動くようになったのは1572年から。 アルバ公の弾圧から逃れて海上でゲリラ活動をしていた集団の総称を「海乞食」というが、オラニエ公は彼らを私掠船として公認した。私掠船とは《国王や地方長官が、特定の個人または団体に特許を与えて、外国の艦船を拿捕・…