神聖ローマ帝国皇帝カール6世の長女マリア・テレジアのオーストリア王位継承にバイエルン、スペイン、プロイセン、フランスらが言いがかりを付けて起こした戦争。イギリスはフランスと対立していたためオーストリア支援に回った。オーストリアは、最終的にシュレジェンを割譲しつつも帝位と領土の大半は確保した。
プロイセン軍のオーストリア領シレジア(シュレジェン)への侵攻によって戦争が始まった(第一次シュレジェン戦争。1740年〜1742年)。
帝位への野心を示すバイエルン選帝侯と、オーストリア領ネーデルランドへの野心を持つフランスもこれに呼応して侵攻を開始。先手を取られたオーストリア側はシュレジェンやボヘミアを占領され、帝位をバイエルン選帝侯に奪われた(カール七世アルブレヒト。在位1742年〜1745年)。
その後、1742年にプロイセンがシュレジェン領有をオーストリアに認めさせたことで戦争から離脱し(ブレスラウの和約)、またイギリスがフランスとの対立からオーストリア側に立って参戦したことで戦局が転換した。マリア・テレジアはハンガリーの協力を引き出すことに成功、バイエルン・フランス連合軍を破った。
1743年、オーストリアはバイエルンを占領した。イギリス軍の支援もあって、1744年にはフランス領アルザスに侵攻した*1。
1744年、オーストリアに脅威を感じたプロイセンはフランスと再度同盟を結び、ボヘミアへと侵攻した(第二次シュレジェン戦争。1744年〜1745年)。プロイセン軍は一時はプラハを占領したが、オーストリアの反撃によって押し戻された。
1745年にバイエルン側の皇帝カール七世が没したことでバイエルンが戦争から離脱(フュッセンの和約)、マリア・テレジアの夫フランツ一世が皇帝に選ばれ、帝位はハプスブルク家へと戻った。プロイセンはシュレジェンの確保と引き換えにフランツの帝位とマリア・テレジアによる相続を認めた(ドレスデンの和約)。
なおも戦争は(主に英仏間で)続くが、1748年10月18日のアーヘンの和約*2で終結した。
アーヘンの和約の主な内容は以下のとおり。
オーストリアは領土を一部失うも、帝位と大国としての立場は引き続き保持しえた。
プロイセンはシュレジェン領有によって、大国の仲間入りを果たす。
フランスはネーデルランドの獲得に失敗、インドの英国植民地マドラスも(ジョージ王戦争中に占領されたカナダ沖のケープ・ブレトン島と引き換えにする形で)返還。
*1:なお、1743年6月19日のディッティンゲンの戦いでは国王ジョージ二世率いる英軍がバイエルンでフランス軍を撃破したが、これは英国王が直接軍を率いた最後の戦いである