Hans Knappertsbusch/ハンス・クナッパーツブッシュ、クラシック、指揮者、(1888-1965)
巨大とも思える荘厳な音楽作りをし、リヒャルト・ワーグナー、アントン・ブルックナー、ヨハネス・ブラームスなどに名演を残している指揮者。
人物として大の練習嫌い。練習をすると自分の即興性が失われると嫌い、1955年のウィーン国立歌劇場復帰のリヒャルト・シュトラウス「薔薇の騎士」のリハーサルに「昔の仲間がたくさんいるじゃないか、今夜は昔通りうまくやろう」と言って帰ってしまったエピソードは有名。
また大の挨拶嫌いでカリカチュアにもなっていたり、拍手中に演奏を始めてしまっているCDは多々ある。
1888、ドイツ、エルバーフェルト生まれ(ホルシュツ・シュタイン、ギュンター・ヴァントと同郷と言うことになる)、本名はハンス・アルフレート・クナッパーツブッシュ。呼び名はアルフレートのほうを好んで用いていたらしい。実家は祖父が創設したアルコール蒸留会社であった。ハンスと呼ばれるようになったのはハンス・リヒターの影響であると思われる。
1908、母の望み通りアビトゥーアを得て、ボン大学に合格。同時にケルン音楽院にも通った。ケルン音楽院ではシュタインバッハに指揮法を、ラッツィーロ・ウツィリッヒからピアノを学んだ。
ボン大学では哲学を学び、ヴィルヘルム・ヴィルマンス、アロイス・シュルテ、レナード・ヴォルフの講義を毎年聴講する。
1910年、ミュールハイムの劇場に勤めたが、同劇場がつぶれたため新設のボーフム市立劇場に移った。しかしそこもすぐにつぶれたためミュンヘンで学業に専念したという記録もあり、1912年にはケルンの劇場、1913年にエルバーフェルトの劇場に在籍したと言われるが、正確な記録はない。
1913、ミュンヘン大学に学位請求論文「パルジファルおけるクンドリー」を提出したが、学位取得には至らなかった、ということはハッキリしているようだ。理由は、アードルフ・ザントベルガー教授の評価が芳しくなかった、とか、劇場の仕事が忙しくで口述試験が受けられなかったなどとも伝えられている。
1913年、彼はまず無給の指揮者として生地エルバーフェルトの劇場につとめた(デビューは9月15日だった。動きの大きい指揮姿が批評で指摘されている。)その後、1914年1月に「パルジファル」を振って急遽代役をつとめ、それをきっかけに常任指揮者となり、続いて「マイスタージンガー」でも大成功を収めた。
1920年、オットー・ローゼの推薦により、32才で当時ドイツ最年少の「音楽総監督」となった。最初と最後のコンサートは「悲愴」、解釈の模範はアルトゥール・ニキシュ(ベルリンフィル第2代主席指揮者)と言われている。
1922年、ブルーノ・ヴァルターの後任としてバイエルン国立歌劇場音楽監督に就任。クナがナチと組んでワルターを追い出したとまで言われているが、詳細は謎である。
1933年、アドルフ・ヒトラー政権成立後、まもなくミュンヘンでの「ヴァルキューレ」にヒトラーが臨席するにあたり、ヴォータン役をヴィルヘルム・ローデを希望してきたが、クナは当初の予定通りハンス・ヘルマン・ニッセンで上演した。結局ヒトラーはこのとき臨席しなかった。また「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の最終場で行われたヒトラー式挙手に参加しなかった。
1936年、バイエルン国立歌劇場監督を突如解任される。後任はヒトラーが好んだクレメンス・クラウス。心苦しい詫び状まで書き、何とか国内での演奏は許可されたが、まもなくバイエルン州での活動を禁止されたため、戦前のバイロイトには登場しなかった。その後、戦時中は活動の拠点をウィーンに置く。1937年以降、ザルツブルク音楽祭に参加。
終戦後、1945年、8月17日、ミュンヘンにて歌劇場再建の協力を訴えるコンサートで指揮。
1945年、8月21日、連合軍のブラックリストに載ってしまう。活動禁止処分が解除されたのは1946年12月4日。晴れて自由の身となり、バンベルク交響楽団にて指揮。以後活動に復帰する。
1951年、7月30日、戦後第1回目のバイロイト音楽祭にて「パルジファル」の指揮台に立つ。(前日に行われたのがフルトヴェングラーの第9である)この年はカラヤンと分担して、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」、「ニーベルングの指環」を指揮している。この後、ヴィーラント・ワーグナーと不和となった1953年(この年のパルジファルを演奏したのはクレメンス・クラウス)を除いて1964年までバイロイト音楽祭には参加。
1965年、急性の心臓及び循環不全で逝去。