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コソボ紛争

(社会)
こそぼふんそう

年表

1168 ビサンティン帝国の支配下を脱し、中世セルビア王国がコソボのプリズレンを首都にして建国
1389 セルビア王国がコソボの戦いでオスマントルコに敗北。イスラム教徒への改宗が行われる。
1878 サン・ステファノ条約でミトロヴィツァ以北のコソボの地域がセルビア領に。東方問題解決のためのベルリン条約で、セルビア王国がオスマントルコから独立、同時にコソボの全域はオスマントルコ領に戻る。
1912 第一次ヴァルカン戦争でオスマン帝国敗北。翌年のロンドン会議でセルビアがコソボを奪還し、今日のコソボの領域がほぼ固まる。
1929 ユーゴスラビア王国成立(当時はセルビア人クロアチア人スロベニア人王国)
1941 枢軸側諸国がユーゴスラビアを分割。ナチスドイツがクロアチア独立国を傀儡国家とした他、ドイツ・イタリア・ハンガリー・ブルガリア等の枢軸国が分割占領
1945 ユーゴスラビア共産主義者同盟らによるパルチザンがソ連と支援を受けずに自力でユーゴスラビアを解放。セルビア・モンテネグロ・スロベニア・クロアチア・ボスニアヘルツェゴビナ・マケドニアから成る「ユーゴスラビア連邦人民共和国」が成立(反ナチスゲリラ闘争の指導者チトー主導)。コソボはセルビア共和国の一部として編入。
1946 アルバニアに人民共和国が成立
1948 ユーゴスラビア、コミンフォルム除名
1949.10.20 ユーゴスラビア、国連に加盟
1953.01.14 チトー、ユーゴスラビア大統領に就任
1953 コソボ=メトヒヤ自治区が成立
1953.12.22 ユーゴスラビア、アルバニアと国交断絶
1957.10.15 ユーゴスラビア、ソ連と国交回復
1957.10.23 米、ユーゴスラビアへの経済援助を打ち切り
1958.04.22 ユーゴスラビア、ソ連圏に入らないことを宣言
1962 アルバニアがコメコン脱退
1963 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称。コソボは自治州に
1969.11.20 ユーゴスラビア、アルバニアと国交回復
1971 ユーゴスラビア、チトー後に備えた集団指導体制の発足を宣言
1974 コソボが独自政府を持つ自治州に。独自憲法下で司法立法行政機関を保有。
1975 全欧安保協力会議(CSCE)、ヘルシンキ宣言で紛争解決で「国境線の不変更」の方針を定める
1979 ソ連がアフガニスタン侵攻。翌年のモスクワ五輪を西側諸国が軒並みボイコット。
1980 カリスマ指導者、チトー大統領が死去。集団指導制が実際稼働へ
1981 賃金引き上げや雇用を求める抗議運動が高まり、暴動による非常事態宣言が発令される。
1986.6 ソ連、ペレストロイカ・グラスノスチ
1988.5 ソ連、アフガニスタンから撤退開始
1989.3.28 コソボ自治州の権限縮小。抗議住民と当局が衝突。
1989.11 ベルリンの壁崩壊。東欧の民主化と市場経済化がスタート
1989.12 マルタ会談で冷戦終結を宣言。以後、東西対立下における「社会主義を標榜しつつ非同盟ブロックの盟主であるユーゴとしての存在価値」が相対的に低下。
1990 ↓その結果、民主化・資本主義化の流れが起こる。ルーマニアではチャウシェスクが処刑、ブルガリアでは共産党が一党独裁を放棄、アルバニアでは信仰の自由が復活、スロベニアに非共産政権、
1990 ミロシェビッチ,セルビア大統領に就任
1990.7.2 ミロシェビッチ大統領、コソボの司法警察権剥奪・議会政府の機能停止措置。対するコソボ議員団は「コソボ共和国」樹立表明独立宣言で対抗も、国際社会はこれを承認せず。
1990.10.3 東西ドイツ統一。この影響を受け、民族自決のムードがユーゴ内でも高まる
1991 コソボ共和国議会、独立主権国家宣言採択
1991 スロベニア・クロアチア・マケドニアが独立宣言
1991.07.04 CSCE、ユーゴスラビアへの停戦監視団派遣を決定
1992 アルバニアに非共産党政権が発足
1992 コソボ議会大統領選挙。非暴力主義の独立運動を展開していたコソボ民主同盟の指導者のルゴバが大統領就任。
1992.03.03 ボスニアヘルツェゴビナが独立宣言
1992.3 内戦に対するリスボン合意。ECが仲介。戦況を反映した3分割を提案も、失敗。
1992.3 国連保護軍(UNPROFOR)を派遣
1992.04.06 ボスニアヘルツェゴビナで緊急事態宣言。ボスニア紛争勃発
1992.04.27 セルビアとモンテネグロが、ユーゴスラビア連邦共和国の創設を宣言
1992.9.27 国連総会が、ユーゴスラビア連邦共和国を除名
1993 イスラエルとPLOが歴史的和解
1993.1 ヴァンス・オーウェン和平計画。ECと国連が仲介。91年の民族割を反映し10分割を提案も、失敗
1993.8 シュトルテンベルグ・オーウェン和平計画。ECと国連が仲介。NATOを主体としたPKO・戦況を反映した3分割を提案も、失敗。
1994.2.11 空爆を行う権限、明石康旧ユーゴスラビア問題担当特別代表に付与
1994.04.24 NATOの空爆最後通告期限が切れるも、明石氏は部隊撤退を評価し空爆回避
1995.4 UNPROFORを国連クロアチア信頼回復活動(UNCRO)、第2次国連保護軍(UNPROFOR II)(ボスニア)、国連予防展開軍(UNPREDEP)(マケドニア)に3分割
1995.10.10 ガリ国連事務総長、明石康国連事務総長旧ユーゴスラビア問題担当特別代表を解任。後任に国連本部のアナンPKO局長が臨時代理
1995.12 デイトン和平合意・ボスニア包括和平協定調印、ボスニア紛争終結。米主導・2分割。が、コソボに関しては特に合意無し。
1996〜97 コソボ解放軍(KLA)が台頭。ルゴバ大統領の実権が徐々に衰退
1997.3 アルバニアでネズミ講の破綻を契機とする暴動。この際、マルクス主義に基づくアルバニアとの融合を目標とするコソボ解放軍に大量の武器が流入。
1997.7 ミロシェビッチ、ユーゴスラビア連邦共和国大統領就任。コソボ解放軍がセルビア治安部隊襲撃
1999.12 デイトン和平協定履行会議をユーゴスラビアとボスニアセルビア人共和国が退席。コソボ問題の国際化に反発
1998.2.23 セルビア治安部隊がコソボ解放軍(KLA)をテロリストだとして掃討作戦開始。「セルビア治安部隊が民族浄化」の情報にナチスの過去の関係で欧州先進諸国マスコミも敏感に反応。コソボ解放軍も独立武力闘争を激化。
1998.3.9 米、英、独、仏、露、伊が新ユーゴに対する武器禁輸経済制裁をとる旨決定。
1998.3.10 ブルガリア・ギリシャ・マケドニア・トルコ・ルーマニアの外相がコソボ紛争の平和的解決を呼びかける共同声明
1998.3.22 コソボ共和国大統領選挙で現職ルゴバが当選
1998.3.31 安保理決議1160採択(新ユーゴに対する武器禁輸)。セルビア系への武器流通は止まるも、コソボ解放軍への地続きアルバニアからの支援は続いた模様。
1998.6 コソボ解放軍が3割を制圧
1998.7 OSCE,EUの外交官から成るコソボ外交監視団を組織
1998.8 コソボの難民が20万人を超える
1998.9 セルビア治安部隊、コソボ解放軍の拠点をほぼ制圧
1998.9.23 安保理決議1199を採択。「安保理は、本決議と決議1160が要求する具体的措置が採られない場合、この地域における平和及び安定の維持又は回復のために、更なる行動及び追加的措置を考慮することを決定する」
1998.10.1 米、NATOの軍事行動を準備すると声明
1998.10.5 ミロシェビッチ大統領とホルブルック米特使の交渉開始。ミロシェビッチ大統領から安保理決議1199の遵守同意をとりつける
1998.10.15 ユーゴスラビア、NATOによる空中査察協定に署名
1998.10.16 OSCEが非武装のコソボ監視団を派遣
1998.10.24 安保理決議1203を採択。憲章第7章に言及
1998.10.17 セルビア治安部隊4000名がコソボから撤退
1999.2.6 ランブイエ和平交渉がスタート。が、決裂。
1999.3.20 OSCE監視団が撤退開始
1999.3.23 ミロシェビッチ大統領とホルブルック米特使の交渉が決裂。同日、米下院で大統領に空爆を認める両院同意決議を反対多数で否決。
1999.3.24 NATOによる空爆開始。精密誘導弾で軍事目標を攻撃したが誤爆や巻き添え被害も多数発生。米では議会の授権なき空爆は違憲と提訴。すべての国連職員がコソボから撤退
1999.3.26 安保理、ロシアが提出の空爆非難決議案を否決
1999.4.3 UNHCRがNATO軍の人道救助活動への参加申し出を受け入れ
1999.4.13 国連人権委員会、コソボ住民への民族浄化行為への非難決議を採択
1999.4 ユーゴがNATOの空爆は国際法違反だとして、国際司法裁判所に空爆差し止め求めて提訴
1999.4 ソラナ事務総長がコソボ介入がNATOによる集団防衛行動であることを示唆。
1999.5.6 G8外相会議、コソボ危機に関する政治的解決の一般原則を採択
1999.5.14 安保理決議1239を採択
1999.5.24 旧ユーゴ国際戦犯法廷がミロシェビッチ大統領を戦犯として起訴
1999.6.3 ミロシェビッチ大統領がG8提案の和平案受諾。連邦軍と治安維持部隊撤退に同意
1999.6.10 国連安保理決議1244採択。コソボの最終的地位は情勢安定・民主法制度の整備・人権尊重・一定水準の統治体制の確立された段階で交渉を開始することに。また、国連の下、国際文民部隊および国連コソボ暫定行政ミッションUNITED NATIONS INTERIM ADMINISTRATION MISSION IN KOSOVO (UNMIK) を設置しPKO展開
1999.6.12 NATOを中心とした国際安全保障部隊KFOR(Kosovo Force)を組織。
1999.6.18 コソボ解放軍、UNHCRに対しコソボにおける国連援助活動への完全協力を保証
1999.6.20 NATO空爆終了宣言
1999.6.21 コソボ解放軍が武装解除に合意
1999.7.13 日米欧主要7ヶ国蔵相会合でコソボ・周辺国の経済復興を協議。2億ドルの拠出と追加支援を日本は表明。以後、流出住民住居建設・学校病院テレビ局修復・医療器材薬品食料品などの生活必需品の提供・映像機材提供・清掃支援・研修生受け入れ・小火器の回収事業支援など多岐にわたる支援を展開。
2000.1.19 コソボ解放軍(KLA)を解体。コソボ保護隊(KPC)設置し事実上改組
2000.9.24 ミロシェビッチが大統領選で敗北(選挙にはモンテネグロは選挙支持派のみ、コソボは多数の住民がボイコット)
2000.9.27 選挙管理委員会、大統領選は過半数に達せず決選投票実施と発表
2000.10.5 首都ベオグラードの議会前で20万人の反政府集会
2000.10.6 大統領選挙での敗北を認め、傘下のテレビ局を通じて退陣を表明
2000.12.15 共同暫定行政機構が発足
2000.12.23 セルビア共和国議会選挙。セルビア社会党が37議席に議席数を減らす
2001.1.25 ジンジッチがセルビアの首相に就任
2001.3 共同暫定行政機構にセルビア系がオブザーバー参加開始
2001.4 セルビア当局がミロシェビッチを在任中の職権乱用・汚職容疑などで逮捕
2001.6 ミロシェビッチの身柄をオランダのハーグに移送
2001.11 コソボ議会選挙を実施
2002.3 ルゴバ、暫定自治政府諸機構PISG(Provisional Institutions of Self-Government)大統領就任
2003 ユーゴスラビア連邦がセルビア・モンテネグロに改称
2004 スロベニアがNATOに加盟
2005.1 ルゴバが病死
2005.10.24 コソボの最終的地位の交渉開始を決定
2006 モンテネグロが独立し、ユーゴスラビア連邦が消滅
2006.2.10 暫定自治政府諸機構大統領に、ファトミール・セイディユが就任
2006.3.11 旧ユーゴ国際戦犯法廷で人道に対する罪・大量虐殺の罪に問われて公判中の元ユーゴ大統領スロボダン・ミロシェビッチが拘置所の独房で死去(64歳)
2006.12.14 NATO、旧ユーゴスラビアのセルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナとそれぞれ協力協定
2008.02.17 コソボが独立を宣言。
2008 クロアチアとマケドニアがNATOに加盟予定
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