ジャン・ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau 1712-1778)
フランスの思想家、エッセイスト。代表的著書に「社会契約論」「エミール」「告白」「孤独な散歩者の夢想」。
ジュネーヴに1712年、時計職人の子として生まれる。しかし、誕生後すぐに母親を失い、父方の叔母により育てられる。父親は子育てにはあまり関心を示さなかったが、7−8歳ごろの父との読者体験は、ルソーに強烈な印象を与える。1722年、父は喧嘩がもとでジュネーヴを去り、以降、2,3度の再会と数少ない文通以外の交流はない。また、時計職人の徒弟奉公をしていた兄も出奔し、以後、行方不明。ジャン・ジャック自身も牧師の家に寄宿するが、罰として受けた、尻の鞭打ちにひどく性的な恍惚と快感を覚える。そのあとの生活も混迷がずっと続く。
たとえば職人見習いとしてギルドに入るが、親方にひどく扱われグレてみたり、貴族の秘書などの職についてもすべてが長続きせぬまま。このころ将来の愛人となる、ヴァランス夫人と出会い、「ママ」、「坊や」と呼び合う関係が続く。聖職者になろうとして頓挫したり、彼女の庇護が受けられないときは、ローザンヌでパリからきた音楽教師をなりすまし、音楽会さえ開くが、大失敗…とかなりトホホな経験を経てから、パリから戻ったヴァランス夫人のもとで音楽や歴史、科学、数学などの体系的な勉強に、初めてまじめに励む。
ただし、そのままジャン・ジャックは落ち着いてしまうわけもなく、例の浮気癖はつねにムクムクと頭をもたげた。本人の弁では「生涯ただ一度の官能的な恋」らしいが、旅先の乗り合い馬車の中でイギリス人だと自分を偽ってまで、とある夫人と不倫したりするうちに、ヴァランス夫人には別の愛人が出来てしまった。ルソーは彼女に冷たくあしらわれながらも、独学を続け、やがて彼の中で著述への意欲が芽生え、定期的に本を書き始めるにいたる。
パリに出たルソーは家庭教師をしながら、音楽をベースにした活動を続け、ディドロ、ダランベールなどの百科全書派の人たちと知り合いになる。また、このころ、とある女性との間に5人もの子をもうけるが、すべて孤児院送りにしている。良心の呵責を感じてはいたが、ついに罰があたったのか、48年、ルソーは尿道閉塞にかかり、生涯病気に苦しむ身となった。
後年、ルソーはまったく別の立場になったと告白しているが、懸賞論文として書かれた「学問芸術論」では、学問芸術の進歩が人間を堕落させ不幸にしたという持論を展開する。それに対する反論に対し、ルソーははげしく自己弁護を繰り返しつつ、名前をあげていった。このあたりが『自然に帰れ』という、ルソーの名前から一番はじめに想起はするが、じつは彼自身は一度も言ったことも、書いたこともない言葉の発生起源のようである。
偉い人に自ら噛み付くことも多々あった。
いわゆるフランス音楽とイタリア音楽の優劣を争う音楽史上でもまれな大論争「ブフォン論争」には、ヴェネツィアでイタリア音楽の影響をうけていたルソーは、イタリア側として参戦。18世紀におけるイタリアとフランスの音楽観の違いについて詳しくは、ジャン・バティスト・リュリの項目などを参照。こうして、ルソーは楽壇の大御所・ラモーにまっこうから反論を企てたり、ルイ15世と王の愛妾にして、文化の最大の庇護者・ポンパドゥール夫人の御前で「村の占い師」などのオペラを上演するなど、音楽活動にも打ち込んでいた。ちなみに「村の占い師」の中のある音楽が、童謡「むすんでひらいて」のメロディと「同じ」であることは有名な話だが、これを除いて、音楽家としてのルソーの業績は、後世に残ることがなかった。
こうして付き合いも派手になり、「学問芸術論」の論旨とは正反対の生活を送るようになったと友人・知人から注意されたルソーは、服装を簡素にし、立身出世をあきらめ、著述活動をいったん中止、写譜で生活の糧を稼ぎ出すにいたる。
このような急激な展開や矛盾を抱えつつ、いくつかの後世に残る著作を世に問うて、田舎生活を送るようになったルソーは、親友だったディドロたちとも思想的に決別したことを公表。まったく孤独な晩年にいたってからは、陰謀に対する強迫観念と諦念を交錯させつつ、最後の著書「孤独な散歩者の夢想」に取り掛かる。しかし、50年前のヴァランス夫人と初めて出会った4月12日に行った「第10の散歩」の途中で執筆は中断。そのまま7月2日に死去している。
極端な展開や矛盾だらけの人生を送ったルソーに対する研究が本格化し、その思想の統一性が問われだしたのは、20世紀もなかばになってからであった。