Diego Armando Maradona
アルゼンチンの産んだ不世出の天才サッカー・プレイヤー。多くのスーパープレイとタイトル獲得でファンを熱狂させた。一方、私生活で様々なスキャンダルに巻き込まれることでも話題に事欠かない。アルゼンチン国民は彼を熱烈に慕っている。
1960年10月30日、ブエノスアイレス州ラヌスに生まれる。15歳でアルヘンティノス・ジュニオールズでトップチームデビュー。類い希なる才能をベースに、アイディアあふれるプレイで周囲の大人を圧倒する。16歳4ヶ月でアルゼンチン代表にデビュー。残念ながら若すぎたため自国開催のW杯には直前でメンバーをはずれた。だが、1979年ユース代表のキャプテンとしてワールドユースで優勝、自身はMVPに輝いた。1982年のW杯では若さを露呈してブラジル戦で退場処分を受け、チームも2次リーグで敗退することになった。
1986年のメキシコ大会はマラドーナの大会となった。世界最高のプレイヤーとして絶賛された。イングランド戦での「神の手」とその直後の五人抜きはともにサッカー史残るプレイだった。ベルギーとの準決勝では2ゴールを決め、西ドイツとの決勝ですべてのゴールをお膳立てするという活躍を見せた。
一方クラブでは、アルヘンティノスからボカ・ジュニオールズへ移籍。ほんのわずかの間の在籍だったが、ボケンセのハートを一気につかみ、現在でもボカのホームスタジアム・ボンボネラにはマラドーナのためのVIPルームがある。そして惜しまれながらヨーロッパに渡るが、スペインはFCバルセロナではサポーターの支持を得られなかった。しかし、84年イタリアに渡り、1986-1987シーズン、ナポリではクラブ初のスクデッドを獲得。南イタリアの英雄となり、1987-1988 UEFAカップ、1989-1990のスクデッドを獲得した。
1990年のイタリア・ワールドカップでは足首の負傷をおしてのプレイで、決勝にまで進んだ。だが、この大会直後から薬物使用疑惑がもちあがり、引退・復帰を繰り返すようになり、1994年、アメリカ大会では大会途中でドーピング検査に引っかかり、出場停止処分となった。その後、アルゼンチンに帰国して再びボンボネラのフィールドに立ったが引退。
キューバでダイエット治療をしていたが、2004年に危篤状態に陥った。このとき、数々のスキャンダルにまみれたマラドーナが、それでもいかにアルゼンチン国民に慕われているのかを全世界に向けて知らしめた。
アルゼンチン国民にとって、マラドーナが特別なのはそのプレイだけでなく、キャラクターである。スーパースターとなってもなお貧しい出身である自分の出自を忘れず、ファンには公平に接し、いつもファンの存在を忘れなかったことを、ファンも忘れてはいなかった。
アビスパ福岡、コンサドーレ札幌などで活躍したウーゴ・マラドーナは実弟。
2011年5月16日、UAEリーグに所属するアル・ワスルFCの監督に就任することが決定・
2012年7月10日、アル・ワスルは監督の解任を発表。
1974〜1980年 アルヘンティノス・ジュニオールズ(アルゼンチン)
1981〜1982年 ボカ・ジュニオールズ(アルゼンチン)
1982〜1984年 FCバルセロナ(スペイン)
1984〜1991年 ナポリ(イタリア)*1
1992〜1993年 セビージャ(スペイン)
1993〜1994年 ニュエルス・オールド・ボーイズ(アルゼンチン)
1995〜1996年 ボカ・ジュニオールズ(アルゼンチン)
1979年 ワールドユース 日本大会 優勝
1982年 FIFAワールドカップ スペイン大会 2次リーグ敗退(5試合2得点)
1986年 FIFAワールドカップ メキシコ大会 優勝(7試合5得点)
1990年 FIFAワールドカップ イタリア大会 準優勝(7試合0得点)
1994年 FIFAワールドカップ アメリカ大会 ベスト16(2試合1得点)
1994年 デポルティーボ・マンディージュ(アルゼンチン)
1995年 ラシン・クラブ(アルゼンチン)
2008〜2010年 アルゼンチン代表
2011〜2012年 アル・ワスルFC(UAE)
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*1:功績を称え、背番号10番はナポリの永久欠番となっている。