ナポレオン2世

(社会)
なぽれおんにせい

Napoléon François Charles Joseph Bonaparte
ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ・ボナパルト
ローマ王 Roi de Roma 1811-1815
フランス皇帝ナポレオン2世 1815
ライヒシュタット公 Herzog von Reichstadt 1818-1832
1811年3月20日、生まれ。1832年7月22日、死去。
フランス皇帝ナポレオン1世と、その二度目の皇妃マリー・ルイーズ・ドートリッシュの間の第一子、長男として生まれた。
生まれながらにしてフランス帝国の後継者として、ローマ王の肩書きが与えられたが、ローマ王が4歳の時、ライプチヒ、ワーテルローの相次ぐ敗戦によりナポレオンの支配体制は崩壊、以後、ローマ王は母方の実家であるオーストリア帝国皇帝家であるハプスブルク家に引き取られ、厳重な監視のもとで、育てられることになった。
ナポレオンの退位宣言直後に、一時的にフランス皇帝として擁立されているが、フランス帝室に関わる権利・称号はウィーンに引き取られた後はすべて剥奪された。
オーストリア皇帝フランツ1世の孫として、ハプスブルク家の一員として育てられ、改めてオーストリア貴族としてライヒシュタット公の称号が1818年に祖父皇帝より与えられ、以後はその名で知られる。
父方の親戚、ボナパルト派のフランス人とは接触を禁じられ、母親のマリー・ルイーズも女公としてイタリアのパルマに赴任したため、宰相メッテルニヒの監視下、ライヒシュタット公はウィーンで孤独に育てられた。
ナポレオン戦争の傷が深かったオーストリアではナポレオンに対する怨嗟の声が強かったが、ライヒシュタット公は生涯、英雄ナポレオンに対する忠誠を持ち続けた。
しかしその眼差しは盲目的なものではなく、批判すべき点は弁える、冷徹な歴史家としての視線をライヒシュタット公は持っていたという。
父と同じく軍人となることが彼の希望だったが、21歳で結核のため死去。
妻子はおらず、ナポレオンの正統は途絶えた。
死後はシェーンブルン宮殿内にあるハプスブルク家霊廟に葬られたが、第2次世界大戦中、ドイツ軍がフランスを占領する中で、ヒトラーがフランス人への懐柔策としてライヒシュタット公の遺体をフランスへ返還することを決定し、実行された。
現在はパリのアンヴァリッド、父ナポレオンの隣に埋葬されている。

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