熊本平野の会戦で敗れた薩軍は熊本市南東の木山から浜町(矢部)を通って人吉盆地方面に向かう様子だった。官軍側では4月25日に木山の灰塚で以降の進軍部署を協議した。もし薩軍が人吉に立て籠もるならば、西側の八代から進撃し、都城に立て籠もるならば鹿児島に分遣した部隊と協議して進路を決めよう、人吉南西側の大口方面に対しては鹿児島県北西部の出水から進撃しようというものである。その結果、阿蘇山南東側に進んだのは別働第二旅団・熊本鎮台・第一旅団・第二旅団・第三旅団だった。 五月一日雨天当濱甼周圍エ更ニ胸壁ヲ築キ各所エ間諜或ハ斥候ヲ出ス 官軍は地元民を使って薩軍の状況を探っていた。これは5月に限らない。下記のよ…