パウル・ヒンデミット、Paul Hindemith 1895年-1963年
作曲家。オーケストラで定位置を持つほとんどの楽器のためにソナタを作ってくれたありがたいお方。非常な多作家で生涯で作曲した曲は600曲以上。まさに職人の鑑。
1895年、ドイツのフランクフルト近郊のハーナウで生まれる。9歳からヴァイオリンを習い始め、第一次世界大戦に従軍。兵役から解放されてからのち、1928年までは指揮者として、あるいはアマール弦楽四重奏団のヴィオラ奏者としても活躍。
1920年代は実験主義的で先鋭的な作風で知られ、ジャズの手法を取り入れたような作品も作る。作風は「表現主義」から出発し新古典主義的な「新即物主義(ノイエザッハリヒカイト)」へと変化。「新音楽(ノイエムジーク)」の旗手として注目された。
1930年代、作風は革新から円熟へ向かうがナチスの迫害を受ける。ヒンデミットはユダヤ人ではなかったがナチスの文化政策に同調しなかったためである。1938年スイスへ亡命。
1940年、ヒンデミットはナチスの迫害を逃れアメリカへ亡命。そこで実用音楽(ゲブラウフスムジーク)のコンセプトをより強く推し進める。アマチュアオーケストラや吹奏楽のための楽曲も作曲。そしてオーケストラのほとんどの楽器のためにソナタを作る。また『伝統的和声学(全二巻)』『音楽家の基礎練習』の著書も執筆。
第二次世界大戦後、1953年にアメリカからヨーロッパへ帰還、スイスへ。1963年にフランクフルトで没。
1929年、ヒンデミットの歌劇「今日のニュース」が初演される。しかしそれを見たヒトラーは劇中で女性の裸身が出てくる風呂場のシーンに激怒。
1933年、ナチスはドイツの政権を掌握。若き日に画家を目指し挫折したヒトラーは文化政策を矢継ぎ早に指示した。
1934年から1935年のオペラシーズン、ナチスはヒンデミットの新作歌劇「画家マチス」を退廃芸術であるとして、ヒトラー総統の許可が出るまで上演禁止とした。そしてナチスの機関紙を通してヒンデミット批判を展開した。その内容は、「ヒンデミットの楽曲がドイツ的でない・ユダヤ人音楽家と弦楽四重奏団を組んでいた」という中傷、「ヒンデミットはユダヤ人だ」というデマゴーグ、などである。
それに対し一部の聴衆および音楽家から、ささやかな抵抗が試みられた。指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは「ヒンデミットの場合」という論説(フルトヴェングラー『音と言葉』(新潮社文庫)所収)を発表、ヒンデミットを擁護した。しかし、こうしてナチスの文化政策に異を唱えたフルトヴェングラーは芸術総監督の辞任を余儀なくされ、一切の演奏会・公的活動を禁じられた。
以上のような1935年前後の事件をヒンデミット事件と呼ぶ。
1938年、ヒンデミットは迫害を逃れスイスへ亡命した。