Pierre Boulez
作曲家/指揮者/著述家。
1925年、フランス モンブリゾンのエンジニアの家系に生まれた。
パリ国立高等音楽院で、オリヴィエ・メシアンや、シェーンベルク派の音楽理論家としても知られるルネ・レイボヴィッツに師事した若き日は、シェーンベルクら新ウィーン楽派が、12の音でなりたつ音列(セリー)で、音楽のシステム化を試みた「12音技法」を、さらに突き詰め、リズムなどにいたるまでを音楽のすべての要素を精緻に統括する「トータル・セリエリスム」を完成。セリエリスムに対する、作曲の創造性はどこにあるのか?という美学的な反論には、音列の選択の自由という豊かな自由があるではないか、と弁明した。
また、当時のブーレーズは、現在とは比較にもならぬほど、強硬な姿勢をもった音楽家で、そのほかの様式をそなえた音楽のありかたを認めず、退廃したブルジョワに愛されるロマン派くずれとして、シェーンベルクの弟子であるところのアルバン・ベルクをも批判し、「オペラ座を燃やせ」などに代表される、伝統的なクラシック音楽のあり方への批判を、逆説に富んだ強烈なアジテーションで表現し、さらにシュトックハウゼン達とドイツのダルムシュタットで夏期に開催されている、前衛音楽の講習会で熱弁をふるった。
また、早くから音楽団体「ドメーヌ・ミュジカル(1954〜)」を主催し、自作をはじめ、自身の音楽的な理想を表現することにも関心をしめし、1958年からはバーデン・バーデンの南西ドイツ放送交響楽団と活動を始めると、クリーヴランド管、BBC響、そして抜群の「耳のよさ」を買われて、ニューヨーク・フィルの音楽監督として有名になる。当時はベートーヴェンやメンデルスゾーンのいわゆる古典的名名曲を、突き詰めた精緻な解釈で読み直す形の指揮スタイルで知られた。しだいに批判していたアルバン・ベルクの復権活動にも携わり、パリのオペラ座では、アルバン・ベルクの死後、未完のままで放置されていた「ルル」を、フリードリヒ・チェルハによって補完された三幕ヴァージョンで初演もした。1976年にはバイロイトでパトリス・シェロー演出による「ニーベルングの指環」(通称ダムリング)を指揮した。以後ブーレーズは5年間「指環」を振った。
指揮活動は、フランスの国立電子音楽研究所IRCAMの所長就任とともに、いったんは引退したが、1991年、同所長辞任とともに、復帰。近年は、マーラーやバルトークなどの指揮にも取り組んでいるが、明晰かつ創造的解釈を聞かせる「作曲家出身の指揮者」から、「聞かせ上手な指揮者」のイメージに芸術的な変貌を遂げた。
作曲家としては、つぎつぎと新作を発表することより、過去に発表した作品の改定を繰り返す創造のパターンが多い。たとえば、当時隆盛しはじめた「電子音楽」に対しても、かなり批判的な態度をとっていたが、IRCAMの最新テクノロジーを駆使して、音の空間性/移動性、ということに主眼を置いた「レポン」など、画期的な作品を発表した。IRCAM時代には、さらに「アンサンブル・アンテルコンテンポラン」を組織。ジャン・ギアン・ケラスやピエール・ローラン・エマールなど現在のフランスの代表的な音楽家と活動をともにした。
また、ジョン・ケージなどの「開かれた音楽」を、「怠慢」として批判したことも有名。とはいえ、ブーレーズ自身もケージの考え方には刺激を受け、自作の中でも、ここはいくつかあるパターンのうち、どれかを選んで演奏しなさい、という指示を出したことはいくつかある。演奏の録音と再録音を聞いても、同じバージョンしか演奏されてはいなかったが、彼自身の言葉でいえば、これらは「準備され管理された偶然」であるそうだ。
ただし、近年では、ブーレーズ自身が中心的な役割をもってたずさわった「現代音楽」ないし「前衛音楽」とでも呼ぶべきジャンルの音楽は、理解されないことで自身の価値を保持する、というロマン派以来の逆説的な価値観の崩壊とともに、その排他性を疑問視され、クラシックの音楽界において微妙な地位におかれている。その一方で「現代音楽の法王」とまで呼ばれたブーレーズ自身への評価はなぜかゆるぎない。今日にいたるまで、演奏活動を機軸に、若手の育成にも積極的に取り組んでいるし、フーコーやドゥルーズらの哲学者たちとの交流を彷彿とさせる音楽に関する思弁的なエッセイや論文の執筆活動も相変わらずさかんである。最近の言葉で印象的なのは「私は現代音楽の未来に、なんら不安を持ったことはない」だろうか。
2016年1月5日、死去。