[Edmund Husserl]1859年〜1938年 現象学的哲学を確立したオーストリア出身(フッサール出生当時はオーストリア帝国、現在はチェコに属しているモラヴィア地方東北部プロチョエフ(ドイツ語では、プロスニッツ)という町で生まれる。)のユダヤ系ドイツ人。哲学以外にも人間を対象とする科学全般に大きな影響を与えている。
愛称「フッ君」
デカルト的省察 (岩波文庫)
*リスト:リスト::学者
仲正昌樹『ポストモダン・ニヒリズム』のつづきを読む。 nainaiteiyan.hatenablog.com この本は恐ろしく難しい。 デリダによるベンヤミン解釈は、神話と暴力に関していろいろと論じられているが、『正義論の名著』を読んだことで若干理解することはできた。 しかしながら、つづくアドルノやルカーチ、ブロッホらが論じた主体、客体に関する話はさっぱり理解出来なかった。 古本屋か図書館に行き予備知識を得なければ、これは太刀打ちできないと感じた。 仲正氏はいろいろと本を出しているが、本書はかなり専門的である。 つづく
懐疑主義と新しい思想 ~価値観を疑うことによって崩し、生まれる新しいもの デカルト哲学と分解と数学化 【フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』,デカルト『方法序説』】 懐疑主義者デカルト フッサールと懐疑主義 【フッサール『イデーン』,セクストス・エンペイリコス『ピュロン主義哲学の概要』】 懐疑主義の批判 既存の価値観を疑う懐疑主義者により起こる思想的革命 前回のお話 https://www.waka-rukana.com/entry/281/2021.01.07 懐疑主義と新しい思想 ~価値観を疑うことによって崩し、生まれる新しいもの デカルト哲学と分解と数学化 フッサールはヨー…
■フッサールの訳語「共現前」について 『間主観性の現象学Ⅱーその展開』にはこうある。 訳注〔45〕Appräsentation 本書第一部訳注〔27〕にあるように、「共現前Appräsentation」もKompräsentationと同様、「現前Präsentation」の対概念である。従来、Appräsentationに対して「間接現前」や「付帯現前化」(『現象学事典』)といった訳語が使われてきたが、「間接(的)」や「付帯(的)」とするのは必ずしも適切ではないと思われる。「現前」がそのうちに分裂を含み、「原現前」と「共現前」の協働-絡み合いによって成立しているという意味をこめて、できるだけ…
現象学とヨーロッパの学問の数学化と失われる統一的人間観 現象学の問題意識 【フッサール『論理学研究』】 ヨーロッパの学問と数学化 【フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』】 人間が数字化されて物扱いになっていく 【マルクス『経済学批判』】 部品の集まりとしての人間観 【フッサール『デカルト的省察』】 前回のお話 懐疑主義のエポケー/思考停止を用いる現代的な哲学である現象学とは - 日々是〆〆吟味 現象学とヨーロッパの学問の数学化と失われる統一的人間観 ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫) 作者:エドムント フッサール 発売日: 1995/06/01 メディア: 文庫 …
■「「間身体性」の近さと隔たりー間身体性の倫理学の構想(2)ー」(坂本秀夫著、跡見学園女子大学文学部紀要、第54号:125-144、2019)を読むの巻(2) 二度目に読んで、何となく分かってきた。その間、参照文献に挙がっていた、Richir, M. (2006). "Leiblichkeit et phantasia", in Psychotherapie phenomenologique (pp. 35-45)と、坂本秀夫『他者としての身体』(ブイツーソリューション、2009)を読んだためもあるが。 以下に、必要部分を抜粋して置く。 「フッサールは「知覚的空想(perzeptive Pha…
■Psychothérapie phenoménologique , sous ladirection de Mareike Wolf-Ferida (Paris: MJW Fedition, 2006) がアマゾン経由で来たので、Ⅲ. Leiblichkeit et Phantasia, par Marc Richir (pp. 35-45) を読み始める。 思っていた通り、ひどく難解。 けれど、私がかつて、人間的世界経験のパラドックス構造と名づけて、情報コミュニケーション学研究の論文(2014)で述べ、『人文死生学宣言』でフッサール解読にことよせてパラフレーズしていた事態に相当することを述…
読書ノートの続きです。岩内章太郎さんの本の骨子を勉強するためにまとめていきます。 kyoyamayuko.hatenablog.com 第三章 現象学の原理ーーー普遍認識の条件 135ー195 前回のblogでは、「多様ではあるが、相対的ではない世界」という俊逸な問いを立てたところで終わりました。そのな世界をつくるための方法が「現象学」(133)だと示します。 著者は、「新しい実在論と構築主義の対立を読み解くための手がかりは認識論にある」(135)とし、現代実在論は「それがまさに認識論から離れてしまったがゆえに、深刻な信念対立に帰着」(136)すると指摘する。そして、この「認識論の謎を解明する…
carrot-lanthanum0812.hatenablog.com 自然的態度と超越論的態度 日常生活をただそのまま生きていくことと、その生活の成り立ちや仕組みを反省することは異なる二つの態度である。前者を「自然的態度」、後者を「超越論的態度」と呼ぶ。これは、成り立ちや仕組みの反省というものは、結局のところ意識の志向性による意識内容の構成のされ方を反省することだからである……簡単にいえば、世界の成り立ちなんていう意識を超え出たものを相手にするから、超越論的と呼ばれる。 現象学の親・フッサールは、自然科学などの客観的な学問が生の意味などといった本当に知りたいことに対してなんの答えも出せず、そ…
■1905-06年の講義「想像と映像意識」(Husserl, E. (1980). Phantasie und Bildbewusstsein, In E. Marbach (Ed.), Husserliana XXIII. The Hague: Martinus Nijhoff.)の原文を3度目に読み返している。ドイツ語力の不十分さを相変わらず嘆きながら。 フッサール文献のなかでは、記述が具体的で比較的読みやすいし、私自身の夢の現象学研究の出発点にもしている重要文献だ。 このほど、現象学研究の方法論としても教えられるところが多いことに気づいた。 Zu nächst halten wir be…
その1はこちら 【アニメ哲学その1】アニメの本質は絵か? 動きか?(あるいは声か?)玉川真吾『PUPARIA』など - 曇りなき眼で見定めブログ アニメを通して社会とか文化を考える言説は多いが、アニメそのものについて考えるものは驚くほど少ない。これほどアニメ文化・アニメ産業が隆盛を極める日本だが、実は日本人の多くが好きなのは「アニメ」そのものではないのではないかと私は睨んでいる。どちらかというとアイドル声優とかアニソンとかグッズ集めとかコスプレとか二次創作とか、アニメ周辺の文化が好きなのではないか、と。だからこそ私はアニメそれ自体について考えたいんすわ。 現象学とは 『現代現象学』の音楽論を見…
昨日は、某国立大にて志願先の研究室の教授と面談をしてきました。 総じて、非常に手応えを感じられた有意義な時間でした。その後は、ツイッターで前から仲良くさせてもらってる相互さんと、駒場東大前にある河野書店さんにて合流。お互い本を手に取りながら談笑を交わしました。 その後、渋谷のカフェに移動し、そこでは「対話するための対話」についてお互いの見解を交わしました。何を隠そう、これはグレゴリー・ベイトソンが云うところの関係性言語、あるいはミハイル・バフチンがいうところの「ダイアローグ的対話」から援用したものであります。 ですが、それを敢えて「非・自明化」することで(あるいはフッサール現象学的な意味でのエ…
マルティン・ハイデガー著『存在と時間』を取り上げた4月の「100de名著」の番組の中で、指南役の戸谷洋志氏が「ハンス・ヨナス」という哲学者の業績等について解説しているのを視聴して、私は彼のことを初めて知った。師であるハイデガーから多大な影響を受けながらも、ナチスに加担したハイデガーとの対決を試み、これを克服しようと自らの独自な哲学を打ち立てた大陸系哲学者であり、応用倫理の論客でもあった「ハンス・ヨナス」。私は彼の哲学の中身について強い興味をもった。私は市内の大型書店へ出向き、戸谷氏の著書『ハンス・ヨナスの哲学』を入手して、早速読み始めた。本書は、著者が未来倫理を中心としながら彼の哲学を再構成し…
初心者向けのリストは以前に書いたものがこちらにあります。最初に哲学書を読もうと思われたら下記のリストのほうがいいかもしれません。 waka-rukana.hatenadiary.com 最難解な哲学書 30冊 選ぶ基準 1.歴史的評価の高いもの 2.分厚いものや巻数の多いもの 3.翻訳も難しいとされているもの 4.西洋哲学の範囲内のもの 5.哲学以外の本も若干含まれる 古代 8選 『ソクラテス以前哲学者断片集』 プラトン『国家』 アリストテレス『形而上学』 プリニウス『博物誌』 『初期ストア派断片集』 セクストス・エンペイリコス『学者たちへの論駁』 プロティノス『エネアデス』 『ナグ・ハマディ…
フッサールの心理主義批判 『知覚すること、信じること、判断すること、認識すること、これらはいずれも心理的現象であるから、これらの構造を調べるには心理学を用いなければならない。つまり論理学というのは結局心理学の一分野であり、論理法則は心理学的に、経験的に探究されなければならない』―――こういう考え方を心理主義という。フッサールが指摘した心理主義の根本的な誤りは「認識対象」と「認識作用」を区別できていないことだった。 たしかにピタゴラスの定理はそのつど言及され、理解され、見られ、認識されるものであるのだが、「ピタゴラスの定理」について語るとき、ひとは主観的経験ではなく、非時間的・客観的・永遠に妥当…
一度挫折した「存在と時間」。100de名著で扱われていたので再チャレンジ→やはり挫折→入門書に変更。 著者は、ハイデガー、フッサール、メルロ・ポンティの研究で知られる。新書といえどもなかなかの読み応え。講演録まで射程に含め、ハイデガーの思想を、「存在と時間」を中心に詳説。 ハイデガー(1889-1976)は、フライブルグ大学で神学を専攻するも、フッサールら実存主義の影響を受け哲学に変更。対立するとみられる英米系分析哲学の祖、ヴィトゲンシュタインと同い年。ナチスに加担したとされる。 「存在と時間」について。 存在一般の意味の究明、すなわち、“在るとされるあらゆるもの”をそのように“在るもの”たら…
さて、現代思想とは? 1) 秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるもの、すなわち「差異」に注目する。 2) それが今、人生の多様性を守るために必要だ。 というのが千葉氏のp14での論。 翻訳すれば、「俺が何しようと勝手だろ。いちいちうるさいこというな、ほっといてくれよ!」 排除される余計なものをクリエイティブなものとして肯定したことが20世紀の思想の特徴である、と。 このような管理、秩序維持をいたってソフトな形で、一見そうとはわれわれが気づかない形でおこなっているのが現代管理社会の特徴と指摘するというのがポストモダン思想の言説のかなりの部分をしめていたようにわたくしは記憶するのだが…
良心の呼び声の性格をより根源的な仕方で捉えるために、私たちは、ハイデッガーの「『それ』が呼ぶ」という定式に着目してみることにしたい。 「呼び声はそれどころか、私たち自身によって計画されるものではまったくない。準備されるものでも、随意に遂行されるものでもまったくない。『それ』が呼ぶ。期待に反して、否むしろ意志に反してすら呼ぶ。」(『存在と時間』第57節より) まずは、文脈を確認しておくことにしよう。私たちの生においては、あたかも日常性を突き破るようにして、呼び声の経験とでも言うべきものが降りかかってくることがある。すなわち、「あんなことを言うべきでは/するべきではなかった……」とか、「誰から言わ…
恋に萌える親父の現存在から英雄的現存在へ。未完であることを無視すればドイツロマン派ものとして「存在と時間」は一種の哲学騎士道小説でもある。ただ主役はアラフォー親父で影のヒロインは20代前半の内向的な文学少女である。ハイデッガーは才能はあっても特別な人ではない。だから恋においてはある意味馬鹿正直でいかにも小心でずるい妻子持ちの男としてありがちな話だとは思える。ただその色好みが地位獲得への野心を膨らませて政治的な傾向に便乗して己の権勢を小賢しく固めようとするのは醜い。でもそうなりがちなのだろう。ドイツの大学は様々な分野でユダヤ系の人たちが才能を発揮していた。それを快く思っていない「アーリア系」の人…
『論考』刊行100周年を記念した特集号。 本誌前半には『論考』について、中盤には「倫理学講話」について、後半には『探求』についての論文が収録されている。 『論考』の読み方が時代によってどのように変遷してきたかを論じている吉田論文、ダイヤモンドのウィトゲンシュタイン解釈を論じる槙野論文、アンスコム論文、アスペクト論について論じた山田論文、カベルのウィトゲンシュタインを論じた齋藤+スタンディッシュ論文、ブランダムによる規則のパラドックス解釈を論じた白川論文あたりが面白かった。 あと、面白かったと言えるほど内容が理解できてないけど、野上論文の分析哲学っぽさ(?)は読んでてちょっと楽しかった気がする。…
第二章 真理と実在 現出を手持ちに説明していこうとするとき、「あれはたしかにヘビだ」というためには、ありとあらゆる側面から完全に「ヘビである」ということがわかればよいということになるが、””ありとあらゆる側面””などそれこそ無限にあるわけで一生真理には到達できないということになる。『だとすれば、真理について語ることにいかなる意味があるのだろう』。 第一に、真理は個別の経験を可能にするものとしての超越論的機能を持つ。目の前に見えているスマホはそのつどそのつどの知覚体験を超えた「同一物」である。仮にスマホを見失おうがその間スマホが消滅している訳ではない。そのつどの知覚体験を超えて自己同一性を保って…
哲学史の教科書1冊終わった〜〜!!ここから第二段階〜!なんとなく自分の興味ある分野もわかったし、良かった〜〜!! フッサールの現象学。これ、一番興味あるかも!?「対象の実在を素朴に認める態度を一時中止(エポケー)すると同時に、反省のまなざしを自分自身の意識作用そのものへ向けるための現象学的還元を行わなければならない」形相的還元、超越論的還元により得られた、鈍化された意識を 純粋意識 と呼ぶ。 生の哲学、ニーチェ。奴隷道徳…価値基準が外側。貴族道徳…価値基準が自分の内面にある。超人…生の本源である権力への意思を体現。権力の意志とは、能力・可能性への意思とも言うべきもので、困難や問題にぶつかりなが…
第一章 能動的認識行為の現象学 なにかを観察する。森があって、道があって、途中にロープが落ちている。……と思い近づいてみると、ロープはヘビであった。ここでいくつかのことを確認しておこう。 同じものでも、それを見る視点が変われば見え方・現れ方が変化する。 それそのものと、見え方・現れ方は区別される。ロープに見えたからといってヘビがロープだったわけではない。 なんらかの現れ方を介さずに、なにかを見ることなどできない。現れ方を超えてモノ自体を直接観察することはできない。 同一のものがさまざまに現れるその仕方を「現出」と呼ぶ。だがそのモノ(「現出者」=現れているもの)が現出を介するしかないのなら、その…
分析の始まりは、部分に分けて考えること。 「悟性がその概念によって思惟する一切のものを除去し、経験的直観以外のなにものも残らぬようにすることによって、感性を孤立させる」カントの超越論的感性論の前提。 除去するっていうのは、フッサールでいうエポケーのことですね。 ここが出発点で、現象と物自体の区別が出てくる。カントのこの思想がインストールされるとこれが当たり前になってきて、その前の感じを忘れていたことに気づいた、ちょっとなんとも言えない気持ちになった。 カント以前の素朴に考えている物自体と、カントのいう物自体は違う。わたしたちは直観(感性で直接観察という意味)する世界、映画のような写真のような今…
このところの夫は、哲学者の哲学や思想を解説した本をよく買っていた。 『デリダ 脱構築と正義』(高橋哲哉=著)。この写真、デリダ自身かな? これもその一つだ。新しい本だ。 捨てなくちゃと思いながら捨てられず、中を開いてみると、栞を挟んだページのタイトルが興味深い。 「第五章メシア的なものと責任の思考」ー「1アブラハムと責任のパラドクス」ー「神の記憶をもつ無神論者?」。 夫は途中から、あるいは私のようにあとがきから読み始める人ではないから、ここまで読んでここに栞を挟んだのか、あるいは買った時から挟まれていた栞なのか分からないが、著者のまえがきを読んでみると、 「私を読んでごらん。きみにそれができる…
昨日クラシック・ピアニスト野島稔の訃報に接する。彼の代表作CD『NOJIMA PLAYS LISZT』USA盤1987年を久しぶりに聴く。 https://tower.jp/article/campaign/2022/05/10/04 二曲目の『La Campanella』、やはりいい。好きだ。 https://www.youtube.com/watch?v=DHzNjfR_Nuk こんなかたちでクラシックのピアノ演奏を再び聴くとは。こうなると次は内田光子のピアノかな。熱海市生まれなのに熱海市は・・・。 https://www.youtube.com/watch?v=zQzdPnJWfr8 し…