昭和20年(1945年)1月9日アメリカ第六軍(兵力7万人)はリンガエン湾に上陸、2月3日マニラ市街に突入する。
これに対し、帝国陸軍第十四方面軍(山下奉文大将指揮、兵力28万人)は先のレイテ島の作戦で戦力を削がれていた。そのため山岳陣地にたてこもって抗戦する戦法を採り、マニラ防衛を放棄していた。しかし、海軍陸戦隊(岩淵三次少将指揮、沈没艦の乗組員で編成)と一部の陸軍部隊(兵力あわせて1万6000人)はマニラ死守論のもと武器弾薬が欠乏しているにもかかわらず、3週間にわたって抗戦する。海軍陸戦隊は玉砕し、26日岩淵少将は自決する。また米軍の無差別砲撃により市街は焼け野原となり、市民に多数の犠牲者がでる。