Marcus Antonius(紀元前83年〜紀元前30年)
共和制ローマ末期の軍人・政治家。カエサルの右腕。
同名の祖父はスッラ派の人間で、執政官や監察官を歴任した後、マリウスによって処刑されていた。
また同名の父はプロコンスル級司令官に任命されたものの、クレタで海賊との戦いに敗れたために「Creticus」と綽名される羽目に陥った*1。
紀元前82年頃、ローマに生まれる。
若い頃はギリシャに留学して雄弁術を身につけたと言われる。
長じては軍人として活躍。東方、ガリアなどで戦う。カエサルに見込まれ、ガリアで騎兵隊長として活躍。財務官、護民官などを歴任。ついで勃発したポンペイウスとの内乱でも軍司令官として活躍。
紀元前44年には執政官に就任。ここでカエサルが暗殺されると*2、弁舌にものを言わせてローマを掌握。一時、カエサルの後継者に指名されていたオクタウィアヌスと対立するが、妥協が成立し、レピドゥスを加えた三者で第二次三頭政治を行う。
三人は処刑名簿を交換して政敵を処分すると、復仇に乗り出し紀元前42年のフィリッピの戦いでブルータスらを倒した。アントニウスはさらにエジプトに渡るが、ここで女王クレオパトラの魅力に屈してしまう。
三頭政治は一応続いていたが、徐々に危機は迫っていた。ローマでオクタウィアヌスは着々と地盤を固める一方、アントニウスは東方で時間を浪費していた。
ここでオクタウィアヌスはアントニウスの遺言状と称するものを公開、東方の全領土をクレオパトラの子に譲るとする内容はローマ人の憤激を呼んだ。ここに名分を確保したオクタウィアヌスは開戦に踏み切った。
紀元前31年、アントニウスとクレオパトラの連合軍はアクティウムの海戦で敗北。逃れた二人を追ってオクタウィアヌスはエジプトに侵攻。追い詰められたアントニウスは、クレオパトラが自殺したとの報を聞いて自らも自害した。