元プロレスラー。
本名 木村政雄
1941年6月30日 北海道中川郡出身
185cm 125kg 血液型B型
デビュー戦 1965年4月2日 東京・リキ・パレス 対 高崎山猿吉(現魁勝司)
1958年に大相撲の宮城野部屋に入門。「木の村」の四股名。幕下上位まで上がり十両入り目前だった。「関取になったら相撲をやめられなくなる」と廃業。
1964年10月に日本プロレスに入門。相撲のすり足の矯正と減量に大苦戦。豊登の付き人だったことから、1966年3月に東京プロレスの設立に参加。東京プロレス崩壊後、1967年2月に国際プロレス入団。
1969年にファン公募でラッシャー木村と改名。8月にアメリカ遠征。ジョージア地区、カンザス地区で活躍。国際プロレスのエースとして活躍。1970年10月に日本初の金網デスマッチを行い、ドクター・デスにKO勝ち。以後、金網の鬼として一世を風靡した。1975年4月に金網デスマッチ初のタイトルマッチを行い、マッドドッグ・バションを破ってIWA世界ヘビー級王座を獲得。1976年3月には全日本プロレスとの対抗戦で、鶴田と1対1の後、ダブルフォールで引き分け。プロレス大賞のベストバウトを受賞した。
アニマル浜口、寺西勇と「はぐれ国際軍団」を結成し、新日本プロレスに参戦。ヒールとして活躍したため、新日本プロレスのファンが自宅までおしかけて石を投げたり騒いだりした。愛犬の熊五郎も円形脱毛症になるほどだった。あまりの騒ぎに引っ越したという。1984年4月、UWFの旗揚げに参加。「団体が軌道に乗るまでいてくれ」とある人に頼まれたからだという。「新間さんにお世話になったからね」とも。10月にUWFを離脱。11月に、全日本プロレスの最強タッグ決定リーグ戦に、馬場のパートナーとして参加。以後、全日本プロレスに在籍。2000年、プロレスリング・ノアの旗揚げに参加。2001年6月30日に60歳の誕生日を迎え、24日の名古屋大会では真っ赤なロングガウンに身を包み、還暦記念試合を行った。「この日をあくまで通過点とし、生涯、現役を目指します!」と宣言した。2003年3月1日の日本武道館大会を最後に体調不良から長期欠場。
2004年7月10日、ノアの東京ドーム大会にビデオレターで登場し、引退を表明。同年12月、ノアの終身名誉会長となった。
試合後のマイクパフォーマンスでも活躍。
2010年5月24日、腎不全による誤嚥性肺炎のため死去。享年68。
1981年9月、田園コロシアムで猪木とリング上で対峙した木村は「こんばんは」と緊張感のない挨拶からマイクアピールを始めた。それをビートたけしが「こんばんはラッシャー木村です」とネタにして世間に浸透した。
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