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リンドン・B・ジョンソン

(社会)
りんどんびーじょんそん

リンドン・ベインズ・ジョンソン Lindon Baines Johnson
愛称、略称としてLBJと呼ばれた。
第36代アメリカ合衆国大統領
生没年1908年8月7日〜1973年1月22日
アメリカ合衆国大統領 1963年11月3日〜1969年1月20日
アメリカ合衆国副大統領 1961年1月20日〜1963年11月3日
テキサス州選出連邦下院議員、同上院議員

貧しい農家に生まれ、大学まで一貫して公立学校に通った。
大学休学中に一年間、メキシコ系移民の子供が通う貧困地域の小学校で教師として教えていて、この時の経験から民主党保守派でありながら、公民権法案には一貫して賛成の姿勢を示し、貧困克服のための福祉制度の導入に熱心であった。
同教師時代には、貧困のために昼食を食べられない生徒のためにポケットマネーで昼食を買い与えている。
その後、ニューディール政策に乗じて、連邦下院議員、同上院議員となり、上院では主に軍事畑で実績を積み上げ、民主党議会指導者としてはトップになる民主党上院院内総務を6年に及んで務めている。
1960年の大統領選挙に出馬、しかし民主党の指名を獲得するに及ばず、マサチューセッツ州選出の上院議員ジョン・フィッツジェラルド・ケネディが指名を獲得した。
ケネディは44歳であり、政治家としてのキャリアが浅かったため、民主党重鎮のジョンソンは副大統領候補としては格好の相手であり、ジョンソンならば大票田のテキサス州で票を集められる期待もあった。
この時、ケネディはかつての民主党主流のニューディール派、特にフランクリン・ルーズヴェルト大統領夫人であったエレノア・ルーズヴェルト国連大使からは、大統領選挙において民主党候補として二度、アイゼンハワーに立ち向かったアドレイ・スチーブンソンを副大統領候補に指名するよう、圧力を加えられていたが、これはジョンソンが民主党重鎮ではあっても政治思想的には民主党主流にはいなかったことを意味している。
アイゼンハワー政権下での赤狩りにおいては、狙い撃ちされたニューディール派と距離を置いたジョンソンは、保守派とみなされることが多かった。このことが、政策的にはジョンソンが極めてリベラル的であったのに、リベラルからは保守反動的とさえ見られることが多い理由のひとつとなった。
本選で共和党のニクソン候補を破ったことにより、ケネディとジョンソンは政権を担うこととなった。
ケネディ政権では、事実上の内閣官房の役割を果たしたロバート・ケネディ司法長官とはうまがあわずに、典型的な「葬儀要員」として窓際に追いやられたが、1962年11月22日のケネディ大統領暗殺事件によって、突如として、政治に中央に押し出されることになった。
大統領就任式をケネディの棺をワシントンへと運ぶエアフォースワンの中で執り行うことを強行したこと(臨席したケネディ夫人のジャクリーヌの衣服はまだ血で汚れたままであった)、表向きはともかく内々では大統領に昇格したことを大喜びしたことなどもあって、ロバート・ケネディとの関係が決定的に悪化、ジョンソン政権はほぼ居抜きでケネディ政権を引き継いだが、司法長官は辞任した。

ジョンソン政権はルーズヴェルト政権以後では内政においては際立った成果を挙げた政権である。
南部民主党の重鎮議員たちはことごとく公民権法案に反対していた。外国人の若者をアメリカで学ばせるフルブライト奨学制度の提案者として知られる理想主義的なフルブライト上院議員(アーカンソー州選出)でさえ、公民権法案には反対していた。そうした中で、ジョンソンは公民権法を成立させるために粘り強い努力を続け、ついにこれを成立させた。
また、「貧困への戦争」を宣言し、格差是正のための諸々の政策を実施して、「偉大な社会」の建設を目指した。
内政においては歴代政権の中でも際立ってリベラルであり、これほど福祉主義的であった政権はそれ以後もない。
にもかかわらず、リベラル派からは蛇蝎のように憎まれたのは、ヴェトナム戦争の戦況の悪化が原因であった。

ヴェトナム内戦、およびアメリカのそれへの関与自体はアイゼンハワー政権末期から始まっていて、ジョンソンはそれを引き継いだに過ぎない。一段と関与を深めたのはケネディ政権の時であって、ケネディはキューバ危機の教訓もあり、弱腰はかえって危機を招くと考えていた。
南ヴェトナムの腐敗と民心の離反もあり、ケネディは政権末期にはヴェトナムから距離を置くことも考えていたと言うが、その主張はヴェトナム反戦に転じたロバート・ケネディ周辺を出所にしていて、確たる証拠はない。
ただし、ジョンソン政権においてヴェトナム戦争への関与の規模がエスカレートしていったのは事実であって、ジョンソン政権の責任を問われないということもまたあり得ない。

副大統領が大統領に昇格した場合、残存任期が2年以上であれば一期と換算されるが、ケネディはぎりぎり2年ちょっと大統領職にあったので、ジョンソンはケネディの残存任期+2期8年の最長で10年ホワイトハウスを掌握する可能性があった。
しかしヴェトナム反戦の声と政権批判の声に疲れて、1968年の大統領選挙では民主党予備選で、緒戦のニューハンプシャー州において泡沫候補とみられていたヴェトナム反戦派のユージーン・マッカーシー上院議員が善戦したことを受けて、ジョンソンは不出馬を表明、最終的には共和党候補のニクソンが勝利し、ジョンソンは在任6年にしてホワイトハウスを去った。

オリヴァー・ストーン監督の映画「JFK」などでは、ケネディ暗殺事件の黒幕とされている。
ジョンソンがテキサス州内で政治資金を得るために数々の汚職に手を染めていたことは少なくとも一部は事実と確認されていて、マフィアとのつながりも指摘されている。このことがマフィア撲滅に情熱的な執着を見せていたロバート・ケネディとの不仲の一因という指摘もある。

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