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一休宗純

(読書)
いっきゅうそうじゅん

いわゆる「一休さん」である。臨済宗の僧侶で京都うまれ。1394〜1481年。建武3(1336)年に足利尊氏が擁立した持明院統の光明天皇と、これに対立して吉野に移った大覚寺統の後醍醐天皇の、二つのパラレル国家;南北朝が、56年ぶりに3代目将軍;義満の仲介によって統一した翌々年の応永1(1394)年生まれ。よって国内も混乱していたが、対外的にも、壱岐・対馬・備前松浦の3島の土豪・商人・漁民が海賊化して朝鮮半島を襲う「前期-倭寇」が盛んとなり、遣明使を送って勘合貿易を始めたり、そういう世情が「婆娑羅」〔ばさら〕(=ド派手で奇妙な格好をする風俗。やがて大名たちの間にも流行し、アンシャン・レジームを嘲り、無道・無体な振る舞いをするようになっていく)をも産んだような時代。
この南北朝の北朝方;後小松天皇の落胤〔ラクイン〕(=私生児)で、6歳で京都の安国寺に預けられて千菊丸から周建と命名され、13歳で建仁寺に移って漢詩を学び、17歳で五山教団を組織した(作庭師として現代には著名な)夢窓疎石と対立的立場の宗峰妙超の高弟;関山慧玄派の謙翁宗為の西金寺で「応灯関の禅」と呼ばれた峻厳な臨済宗を学び、4年後にこの師;謙翁が野垂れ死んでしまって意気消沈して補陀落浄土の観音の霊場である石山寺へ行き、琵琶湖へ投身自殺を試みるが賢母に止め救われ、21歳で林下精神旺盛な華叟宗曇〔カソウソウドン〕の祥瑞庵で猛修行させられることになり、3K程度では済まない過酷すぎる状況で過労と餓死寸前の衰弱状態のなかトランス/トリップし、その際にカラスの一声に救いを得る。
(これが一休の――徐々に悟っていく「漸悟」の対語;――「頓悟」であった。)
しかし華叟宗曇の死後、兄弟子の養叟宗頤が一門を率いて京都の大徳寺へ移った際に一休も同寺の如意庵の住持となったが、大阪府高槻市の尸陀寺や京都薪村の酬恩庵を転々としながら「わしの居所は遊郭だ」とウソ吹いている。実際、この頃の一休は祖師代の文観が中興した真言立川流を想わすような婆娑羅じみた格好をし、髑髏で托鉢し、帯刀して、「狂雲子」とか「夢閨」と号し、後の狂歌より過激な詩を歌い、狂態の限りを尽くした。
墓前で経を読んでくれと頼まれれば一発でっかい屁をこいてこれでヨシとするし、「仏とは・禅とは?」と問われてペエッペエッペエッ!と唾を吐きかける。文明3(1471)年の大徳寺の入山式(住職就任)の折には同時に退山状も書いて堅田から京都へは赴かなかった。おまけに、交合〔セックス〕も好んだし、酒も飲んだ。およそ仏門のタブーというタヴーは破り捨てた。もうこうなれば吉四六さんの頓知や、ティル・オイゲンシュピーゲルの悪戯の域をこえて、ほとんどアントナン・アルトー(;実際アルトーはラジオ生放送中にマイクに尻を近づけて屁を連発した)か、パンチ&ジュディだ。あるいはマザーグースやシャルル・ペロー。(猟奇殺戮のヘリオガバルスやネロ、吸血鬼のモデル;ブラド・ツェペシェ公爵の一歩手前。)
これには将軍;義教〜義尚さえも「一休に為す術なし」と肩をすくめている。享徳3(1454)年に大徳寺は焼失。これを養叟が再建するが、養叟死後の文明6(1474)年に再-焼失し、これは一休が大阪の豪商に資金繰りさせて再建する。
こういう内に盲目の歌女;「森」〔シン〕と恋に落ち(;相当老齢であるのに)、村田珠光や山崎宗鑑の参禅の師を務める。(他にも飯尾宗祇、柴屋軒宗長、金春禅竹、曾我蛇足、兵部墨溪……など。)そして文明13(1481)年、酬恩庵で示寂。88歳だった。

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