新春の雰囲気といおうか、たたずまいといおうか、そこにつき纏うある種のイメージが、好きである。新春なのであるから、それは清澄なイメージに決まっているのであったが、その清澄なイメージとはしょせんは時計の針によって測られる、人間の愚かな錯覚のごときものでもあっただろう。どだい人間などすべて錯覚で生きているようなものだろう、とする私に、その錯覚は居心地がよい。 その錯覚は、暗がりの路地をすり抜けていく真っ白い猫にでもなったかのように、私のことを感じさせる。または、春や夏の気配を感じ取り今年の春こそは、夏こそは、というたいして実りそうもない何かを夢見る一瞬のはかなげな感懐をもつ心情に、相似ている。どうあ…