昨日の続きになるかは分からないが・・・。 教育界で何年も前から囁かれている魔法の呪文、「主体的・対話的で深い学び」。 何となく使っている(つまり僕は、はっきりと自分なりに定義づけできていない)この言葉に反発する人はいないであろう。僕は、「学力」という言葉も一体何が学力かはっきりさせてほしいと思っているタイプなので、この言葉にもかすかな反発を覚えている。分かって使っているのかい?と。 僕が普段思っているのはただただ児童が「~たい」と思う授業をしたいということだけだ。「自分で考えたい」「友だちの意見を聞きたい」「図をかいて確かめたい」「計算して確かめたい」「他の場合でもあてはまるのか確かめたい」な…