その頃から久米は天性の才気とその野次性と茶気との為に、教室でなくてはならぬ愛嬌者になつてしまつて居た。 久米の教室に於ける機智や頓才は幾度我々を欣ばしたか分らないが、今迄も忘れないのは独逸(ドイツ)語の時間に久米が独逸(ドイツ)語の何とか云ふ字(古い鉄砲の名)を、「種ヶ島」と訳したので皆の大喝采を博した事である。 その頃に於ける久米の印象と云へば、沢山あるが、何でも芝居に熱中して居た頃の事、ある晩久米と一緒に中洲の真砂座へ行つた、馬鹿に閉場が遅くて電車通(どほり)に出た頃は赤が通つてしまつた後であつた。で仕方なく本郷迄テクテク歩いて来たが、学校へ辿りついたのは一時を廻つた頃で無論門が閉まつて居…