井口村刃傷事件(いぐちむらにんじょうじけん)とは、文久元年(1861年)3月4日、土佐藩にて起こった刃傷事件。これにより上士と郷士の対立が深まり、土佐藩内での内紛寸前まで緊張が高まった。
事件の発端
文久元年3月4日の夜、小姓組・山田新六の長男・山田広衛と茶道方・益永繁斎が、節句祝いの宴会の帰りに永福寺という寺の門前で郷士・中平忠次郎と肩がぶつかる。当初、忠次郎は非を認め謝罪し立ち去ろうしたが、相手を郷士と見た山田は酒の勢いもあり忠次郎を罵倒し口論に到る。
口論の末に逆上した山田は抜刀し、これに応戦する形で忠次郎も抜刀。しかし、土佐で小野派一刀流の師範代をつとめるほどの実力の持ち主で、鬼山田と恐れられる山田に敵わず忠次郎は殺害されてしまう。
忠次郎に同行していた宇賀喜久馬は忠次郎の兄・池田寅之進にこの事態を知らせ、2人は急いで現場へ駆けつけるが、時既に遅く、忠次郎は殺害された後だった。近くの小川で刀を洗い、喉の乾きを潤している山田を発見した寅之進は背後から袈裟懸けに斬り掛かり山田を殺害、近くから提灯を借用して現場に戻ってきた繁斎も殺害した。
寅之進は当初、弟の亡骸を運ぼうとするが、現場に駆けつけた上士・諏訪助左衛門と上士・長屋孫四郎の2人が「死体をみだりに移動させることは禁じられている」と彼の行動を咎めた。その為、寅之進も一旦、弟の亡骸を寺の門前へと戻し、改めて上士たちの亡骸は山田家に、忠次郎の遺体は池田家へと引き取られる。
事件発覚後
翌朝には事件は人々の知るところとなり、山田の家には上士達が、寅之進の家には郷士達が集まる。両者、互いに対決せんと息巻いており、一触即発の危機を迎えていた。この時の郷士側のリーダーが当時25歳の坂本龍馬であった。
上士側のリーダーであった吉田東洋は、藩お取り潰しの事態を避ける為にも、事を穏便に解決する必要があるとして、山田を斬り殺した事件当事者の命一つで解決するように命じる。しかし、これを聞き入れない一部の上士達が池田宅に乗り込んでいった。池田宅に押しかけた上士達は、当事者である寅之進と喜久馬の身柄の引渡しを要求。これに龍馬は応じず、逆に2人の助命を主張。穏便に解決する為にも2人を引き渡せと譲らない上士に対し「どうしても2人を引き渡せと言うなら、我々郷士は命がけで守る。戦になって、藩お取り潰しになるまでだ」と龍馬は徹底抗戦の構えを見せ、両者の緊張は高まっていた。
その頃池田の宅内では、遅れて駆けつけた武市瑞山が、寅之進の行動を責め批判。他の郷士達が「敵討ちは武士の誉れ」と庇うも、武市は「ここは土佐だ。他藩の常識は通用しない」とし、「尊皇攘夷を達成するには土佐藩は必要であり、一連の寅之進の私怨から生じた刃傷沙汰で潰すわけにはいかない」と語った。中と外で押し問答が続く中、寅之進が突発的に刀を腹に突き刺し割腹。皆に迷惑が掛かることを恐れた上での切腹であった
これを見た上士側は「宇賀喜久馬も切腹させよ」と要求。しかし、喜久馬はまだ歳若く、事件には一切関わっていないとして龍馬は喜久馬を守ろうとするも、このままでは喜久馬が上士等に斬り殺されるだけに収まらず、ここに居る全員が殺されるとして、流石の龍馬も助命を断念せざるを得なかった。
結局、宇賀喜久馬も切腹。しかも、親族立会いの下、介錯をしたのが喜久馬の実の兄知己之助(寺田利正)であった。年端もいかぬ弟を介錯した利正(当時25歳)は、その後、精神を病んでしまったと言う。
事件後の対応
事件後、藩は山田の父新八を謹慎処分としたが、弟次郎八には家督の相続を許し、一方で事件に巻き込まれた形の松井家と宇賀家は断絶処分、中平家と池田家は格禄没収との処分がなされた。この決定に郷士側の人々は憤り、事件より半年後に結成される「土佐勤王党」の勢力拡大へとつながる一つの要因ともなっていったと言われる。