私の生涯の三分の一はこの月給生活であった。学校を出て専攻した絵画で世に出ようとした希望は卒業してみれば世の中というものは中々自分の思う様には行かないもので愈々となると目的も希望も変えなければならない羽目に陥るものだ。私が夫れだった。 森村組へは父が勤務していた関係上後継者として勤務しなければならない様になったからだ。元より私の家の生活は決して豊かではなかった。父の収入もそれ程余裕がある程でもなく四人の男の兄弟にも、それ相当の教育を受けさせなければ、ならなかった。 私が美術学校を卒業する迄は思い出しても気の毒な程の苦労をかけ又生活物資も森村組京都出張所主任田中幸三郎氏に一方ならぬ御世話になったと…