俳句はコピー感覚ではないのだと思う 児 島 庸 晃 最近、私が思うことの一つに俳句の散文化がある。五・七・五の定形を踏まえていれば、全て俳句なのだと思っている俳人が多くなっているのではないか。…こんなことを私が思うようになったのには理由がある。俳句を作すのに言葉が先行して、それ故に意味だけの俳句が通常のことのように進行しているのではと思うことが多くなったからである。俳句における散文的という言葉は一般的には味気なく、情趣が薄いという意味でそのような言葉が使われることでもあるのだ。これでは日々の生活の潤いを満たすのには何の役にもたたない。毎日の傷ついた心を救ってくれる温かさにはならない。 俳句の現…